竹富町

竹富町

[1] 竹富町 (たけとみちょう)

24.3269677796491 124.087400436401

Webページ

[2] 竹富町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AF%8C%E7%94%BA

竹富町(たけとみちょう)は、沖縄県八重山郡の町。

[3] 竹富町ホームページ, , http://www.town.taketomi.lg.jp/

2014.06.19「臨時福祉給付金」「子育て世帯臨時特例給付金」お知らせ2014.06.13竹富町新型インフルエンザ等対策行動計画2014.06.11「竹富町ふるさと応援寄附金」の受納状況2014.06.10第1回竹富町新庁舎建設のあり方検討有識者委員会2014.05.01薬物及び銃器取締強化期間のお知らせ(沖縄地区税関)2014.04.02「臨時福祉給付金」および「子育て世帯臨時特例給付金」について2014.03.12水道料金及び下水道・農業集落排水施設使用料改定のお知らせ2014.03.03竹富町西表製糖工場建設工事の一般競争入札について(一部改正)2013.12.27平成25年度竹富町職員採用候補者選定試験合格者(幼稚園教諭・保育士職)2013.12.06平成25年度竹富町職員採用候補者選定第1次試験(第2次募集)合格者

2014.06.25

公営住宅入居者募集(平成26年6月26日公募開始分)

2014.06.20

平成26年 第3回竹富町議会(6月定例会)

2014.06.18

各種証明書交付

2014.06.18

自動車リサイクル離島対策支援事業

2014.06.13

水質検査結果(平成26年度)

2014.06.06

水質検査結果(平成25年度)

2014.06.04

平成26年度 婦人がん検診【乳がん検診】日程について

2014.06.03

選挙人名簿登録者数(平成26年6月2日現在)

2014.05.30

平成26年度 納税カレンダー

2014.05.16

平成26年度 教育委員会及び小中学校行事

[4] 黒島の石碑・説明看板, , http://www.zephyr.justhpbs.jp/kuroshima_hibun.html

日本最南端の町 黒島 沖縄県八重山郡竹富町

位置 東経124°北緯24°14′ 石垣市西南方約19km

面積 13.7km2 八重山群島5番目 周囲12.7km

人口 590名 世帯数121 昭和初期は1000人だった

地形 低平な小島 海抜13m 隆起サンゴ石灰岩

気候 湿潤亜熱帯海洋性 平均気温23.6℃ 降水量2195.7mm

産業 農業:甘蔗作が中心であったが今は肉牛の飼育がさかんで

黒島牛は八重山の名産である。

文化 島名の由来:一説に薩南諸島からの移住者が自己にゆかり

の地名をつけたともいわれるが、サクシィマ(珊瑚礁の島

の意)からフィシマ−黒島に転訛したものであろう。

民謡・伝承:黒島は民俗芸能の宝庫といわれ各部落に古く

からの民謡・伝承が多い。なかでも「山崎のアブセーマ」

「黒島口説」「タラマモーサの話」などは有名であろう。

舞踊:唐踊、獅子舞、仲本部落の「かでく舞」 保里部落の

「太舞」が知られている。 科学:豊富な海洋資源開発

のため海中公園研究センターの建設が予定されている。

リーフはあたかも帽子のツバのように島の周囲にのびている遠浅の環礁で、干潮時は徒渉が可能であるが多くの危険があるので案内なしでわたってはならない。 とくに外海は突然深くなるので注意を要する。

「まっさおな空、サンゴの海、そして頭上を超音速でとびぬける戦闘機−−沖縄の人はしかしなぜあれ程に人の情にあついのであろうか、私は今 守礼の邦にいるのです−−」 1972 一学生

[5] 由布島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%B8%83%E5%B3%B6

由布島(ゆぶじま)は、日本の沖縄県に属する八重山諸島の一島。

西表島に隣接し、海流によって堆積した砂だけで出来た総面積0.15km²、周囲2.0km[1]の小さな島で、昼間は観光客で賑わうが定住者はほとんど無く戸数は数戸、人口は十数人を数えるのみである。

概要 [編集]

島の全域に沖縄県八重山郡竹富町古見687番地が割り当てられている。由布島と西表島の間の海は、通常は大人の膝に満たないぐらいの深さしかなく、満潮時でも1mほどにしかならない。そのため、由布島と西表島間の観光用の移動手段として水牛車が利用され、島の重要な観光資源になっている。また、潮位が低いときには、通常の自動車や徒歩で渡ることも可能である。

由布島と水牛 [編集]

由布島の重要な観光資源となっている水牛車の水牛は、もともと台湾から連れて来られた雄の「大五郎」と雌の「花子」のひとつがいの水牛が繁殖して現在に至ると云われている。島にはその2匹の水牛の名前が刻まれた記念碑が建っており、その家系図をプリントしたタオルがお土産として売られている。また、牛の糞が描かれた「ウン」付き(ウンと運をかけてある)タオルや、水牛の角を加工した置物等の水牛に因んだ土産物も販売されている。

水牛は水牛車を引くために2歳からトレーニングを始め、3歳頃から本格的に車を引っ張るようになる。

飼い主以外の人が水牛を触ることは禁じられてはいるが、非常におとなしく、飼い主の言う事をよく聞くその従順な姿と賢さに驚いたり感動したりする観光客が多い。

台風と西表正治おじい夫婦 [編集]

かつての由布島は、竹富島や黒島から移り住んできた人々で栄えていた。

島民たちは、自分たちが持っている対岸の西表島の水田まで行き帰りして生活をしていたが、1969年(昭和44年)の台風により島は壊滅的なダメージを受けてしまい、ほとんどの島民は亡くなってしまったか、これをきっかけに西表島などに移り住んでいってしまった。

島の人々が消えていく中で、西表正治おじい夫婦は島に残り、再び島に人々が戻ってくることを信じてたくさんのやしの木や花を植え続けていった。そうして現在では、沖縄本島では見ることが出来ない熱帯性の植物がたくさん生い茂り、数々の動物たちが生息している。

関連項目 [編集]

南西諸島

先島諸島

八重山列島

明電舎(島内の電力技術に携わっていたことから、1990

[6] 琉球海道~竹島・硫黄島・黒島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/mishima.html

1. 三島村の三つの島(竹島・硫黄島・黒島)

薩摩半島から50~60km南の沖合に、三つの小島が浮かんでいる。

三つの小島とは、三島村に所属する、竹島、硫黄島、黒島のことである。

このうち竹島と硫黄島は、薩摩半島最南端の長崎鼻や、

九州最南端の佐多岬から眺めることができる。

とくに硫黄島は、海から火山が突き出したその風貌から、遠くから視認しやすい島だ。

これら竹島・硫黄島・黒島へは、村営旅客船「フェリーみしま」で鹿児島から向かうことができる。

隔日で朝、鹿児島港・南埠頭を出港して、

竹島、硫黄島、黒島の順に接岸する。

二日一往復なので、その日じゅうに鹿児島へは戻らず、黒島の片泊港での碇泊となる。

翌日の朝、黒島を出ると、硫黄島、竹島の順に接岸して、鹿児島へ戻る。

上りか下りのどちらかが隔日に運行されるので、あらかじめダイヤを調べておきたい。

近年は、夏の繁忙期に、枕崎に立ち寄よる運行ダイヤも組まれている。

三島村は戦前は十島村に属していたが、

トカラ列島が戦後アメリカに接収されたのを契機に、十島村から分離独立した。

現在は十島村と共に、役場が鹿児島市内にあるが、

役場がその自治体の土地にないのは、全国でも鹿児島県の三島村と十島村、

そして沖縄県の竹富町だけである。

ちなみに竹富町役場があるのは石垣市である。

小さな離島が集まった自治体は、拠点となる場所がその近隣の都市になってしまうが、

役場が自治体の外にあると、村職員の住民税が自治体に還元されない問題が発生する。

三島村の人口は400人余り。その半数は黒島にいて、過疎化が深刻な状況にある。

島の主な産業は畜産業で、黒毛和牛である鹿児島黒牛の生産が盛んである。

2. 竹島

竹島と聞くと、韓国に占領されている竹島を連想するかもしれない。

しかし、あちらは島根県の竹島で、こちらは鹿児島県の竹島でまったく別の島。

竹島の名前の由来は単純明快で、

島全体が琉球竹で覆われた「竹の島」という、それだけのことだそうだ。

竹島のそのすぐ東側には、南西諸島へ向かう航路があり、

屋久島航路や十島航路、奄美・沖縄航路を行き来するフェリーから、竹島は良く見える。

細長く、高低差のない平でなだらかな島で、

周囲は13km、人口は100人にも満たない小さな島である。

黒毛和牛の放牧が盛んで、島の

[7] 先島諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%B3%B6%E8%AB%B8%E5%B3%B6

三山統一による琉球王国の成立(1429年?)

薩摩藩による琉球侵攻(1609年)

琉球藩(1872年)

琉球処分による沖縄県の設置(1879年)

沖縄戦(1945年)

琉球政府設立(1952年)

コザ暴動(1970年)

沖縄返還(1972年)

ナナサンマル(1978年)

普天間基地移設問題

近代以前[編集]

先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年、徳川幕府の了解を得た薩摩藩の島津氏による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。

近代[編集]

明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。

1879年(明治12年)、明治政府は琉球

[8] 先島諸島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%B3%B6%E8%AB%B8%E5%B3%B6

三山統一による琉球王国の成立(1429年?)

薩摩藩による琉球侵攻 (1609年)

琉球藩 (1872年)

琉球処分 による沖縄県の設置(1879年)

沖縄戦 (1945年)

琉球政府 設立(1952年)

コザ暴動 (1970年)

沖縄返還 (1972年)

ナナサンマル (1978年)

普天間基地移設問題

近代以前 [ 編集 ]

先史時代の先島諸島では 縄文文化 の影響は殆ど見られず、 台湾 との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つ ポリネシア と同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代も シャコガイ 貝斧などがみられ、これも フィリピン 方面との文化的関係が考えられている。約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『 続日本紀 』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は 石垣島 を指すといわれる。

14世紀 から 15世紀 に 沖縄本島 に興った 琉球王国 による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。 1500年 に 石垣島 の按司 オヤケアカハチ が反旗を翻すと、 尚真王 は征討軍を編成するが、 宮古島 の豪族・ 仲宗根豊見親 が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、 与那国島 では女首長 サンアイイソバ (サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年 、徳川幕府の了解を得た 薩摩藩 の 島津氏 による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。琉球王府は先島諸島に対して 人頭税 を導入した。

近代 [ 編集 ]

明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害 宮古島島民遭難事件 の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。この事件は、 1871年 (明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が

[9] 琉球海道~トカラ列島(前編) 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/tokara1.html

1. トカラ列島と十島村

屋久島の南には、トカラ海峡が広がり、トカラ海峡で大隅諸島が終わる。

トカラ列島は大隅諸島と奄美群島の間に広がる島々で、

そのほとんどが、霧島火山帯に属する火山島である。

トカラ列島は、大隅諸島から奄美群島への琉球弧の架け橋となり、

古来から琉球弧を行き交う人々に、琉球海道の中継点としてその存在が知られてきた。

興味深いことに、トカラ列島のほとんどの島で「平家の落人伝説」が残されており、

島民は平家の子孫であることを自負している。

平家の落人伝説は、九州の山奥の椎葉や五木でも見られるが、

三島村の硫黄島やトカラ列島、そして喜界島や奄美大島、加計呂麻島でも残されている。

平家の落人が大和の京文化を南西諸島に持ち込んだことは、間違いないようである。

トカラでは、中世、日本と琉球王国の架け橋を担っていた史実が残されている。

トカラの島々の住民は、薩摩に間接的に服属することで、

薩摩の御用聞きとして、南方の事情を薩摩に伝える役割を果たし、報酬を受けていた。

また一方で、琉球王国に日本の事情を知らせて、報酬を受けていた。

薩摩が琉球支配に乗り出すときには、その指南役として手引きをしながらも、

琉球王国に対して薩摩の意図を伝達し、平和裏に支配が運ぶよう琉球王国を説き伏せていた。

奄美大島と喜界島までは琉球王国だったが、トカラ列島は琉球王国の支配を受けたことはなく、

かといって薩摩も薩南諸島より南にあるトカラ列島は、領地として支配なかった。

トカラ列島はあまりにも小さな島々だったため、領地としての価値がなかったからだが、

それゆえに、日本と琉球王国の架け橋となる中立したポジションになりえたのである。

トカラ列島は現在十島村に所属し、7つの有人島と5つの無人島を持つ。

島の領域は南北150kmを越え、海域も含めた領域面積で「日本一長い村」である。

明治維新後、7島の有人島に三島村の3島の10島で「十島村」として誕生したが、

戦後、トカラ海峡より南部がアメリカに占領されると、3島が独立して「三島村」となった。

そして1952年に十島村が日本復帰にすると、

三島村となった3島を除いた7島で「十島村」は復活した。

有人7島は北から口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島で、

無人5島は臥蛇島、小臥

[10] 龍柱撤去求め訴訟も視野 | オピニオンの「ビューポイント」, , http://vpoint.jp/column/52857.html

沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)

那覇市が若狭に建設中の「龍柱」に関して「住みよい那覇市をつくる会」の金城テル代表は18日、花とみどり課に対して住民監査請求を行い、龍柱の速やかな撤去と建設費用の返還を前市長の翁長雄志知事と城間幹子市長に求めた。

龍柱は一括交付金を活用し、前年度内に完成される予定だったが、資材調達の遅れや石にヒビが入っていたことなどから工期が大幅に遅れ、総工費は約2億6700万円から3億3000万円に大幅に増額された。

金城さんは、「計画も予算組みもすべてずさん」と市当局の対応を批判した上で、「覇権主義の中国は沖縄を自国の領土であるかのように振る舞っている状況下で、中国侵略のシンボルと見なされかねない龍柱は那覇市の玄関口にふさわしくない」と主張した。

龍柱が那覇市と中国福州市との友好40周年記念事業であることについて金城さんは、「友好のシンボルならば、福州市に日本のシンボルである鳥居を建てさせるべきだ」と訴えた。

さらに、龍柱を支える支持杭は強固な支持層がある地下50㍍の半分しか届いていないことについて「明確な説明がない。現在の技術力で杭を打ち込めない理由はない」と抗議。「緊急避難場所である若狭海浜公園に危険としか言いようのない柱を立てていいのか」と詰め寄った。

使用している中国産の花崗(かこう)岩についても、「上質なはずのものになぜヒビが入り、コーティングまで施さなければならないのか」と指摘した。

龍柱建設に反対する署名はこれまで3万筆近く集まったという。高さ15㍍の龍柱が積み上げられたことを受け、今後は撤去を求める運動に入るという。監査請求の結果次第では、住民訴訟も辞さない構えだ。(T)

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[11] 都心の納骨堂、宗教かビジネスか 想定外の課税で裁判に:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASHCV4VSJHCVULFA01H.html

都心の納骨堂、宗教かビジネスか 想定外の課税で裁判に

佐藤秀男、松浦新

2015年11月30日00時51分

東京都港区。赤坂見附駅から徒歩数分という都心の一等地に、5階建てのモダンな建物がある。金沢市に本院がある宗教法人「伝燈(でんとう)院」が2年前に開いた「赤坂浄苑」だ。広さ400平方メートル超の敷地に、本堂や、約3700基を収容できる納骨堂を備えている。

納骨した遺族は、ホテルのロビーのようなラウンジを抜け、2~3階の参拝室へ向かう。参拝ブースは計12あり、ICカードをかざすと奥の納骨庫から骨つぼが入った「厨子(ずし)」が出てくる。生花は供えてあり、掃除もいらない。夜9時までお参りでき、都会のサラリーマンが仕事帰りに手ぶらで立ち寄れる。

永代使用料は一基150万円、毎年の護持会費は1万8千円だ。将来、護持会費が払えなくなっても、合祀(ごうし)して永代にわたり供養するという。区画の販売は仏壇・仏具大手のはせがわに委託している。売れると手数料がはせがわに入り、残りは伝燈院が建設費の借金返済に充てる。返済が滞らないよう、はせがわは一定数の販売を保証する。赤坂浄苑では、すでに区画の約3割が売れたという。

ところが、赤坂浄苑の固定資産税をめぐり、宗教法人側が想定しなかった事態が起きている。今年3月、納骨堂として使う敷地と建物の昨年度分の固定資産税などとして、計400万円余りを納めるよう東京都から求められたのだ。

地方税法は、宗教法人が宗教目的で使う土地や建物は固定資産税などを非課税にすると定めている。寺や神社のほか、墓地も非課税扱いとされてきた。伝燈院は、納骨堂も墓地と同じ非課税扱いと考えていた。しかし都は、赤坂浄苑が宗派を問わず遺骨を受け入れたり、はせがわに建物内で営業を認めたりしていると指摘し、課税に踏み切った。

これに対し伝燈院は7月、都に課税取り消しを求める訴えを東京地裁に起こした。角田徳明住職は「ほかで課税された例は聞いておらず、我々だけ課税されるのは納得いかない」と話す。「他の宗派の方も受け入れて布教するのは当然。故人のために毎日読経するなど宗教活動に使っている」という。

宗教法人が運営する納骨堂は2013年度末で約8千あり、5年前より700以上増えた。大都市圏への人口流入と高齢化を背景に、狭い敷地で多くの遺骨を収容できるビル型の納骨堂の新設が相次ぐ。

こうし

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054525761520

メモ