白子川

白子川

[1] 白子川

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[2] 白子川上流部ー地下水堆とシマッポー(4)新川のミッシング・リンクと白子川源流部 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/14190493/

旧田無市側からずっと続いて来た新川の暗渠がぷっつりと途絶える天神山交差点は、保谷駅から東伏見駅を結ぶかえで通りと、ひばりヶ丘駅の東側から武蔵関駅を結ぶ都道234号前沢保谷線が交差している場所だ。ここは、新川の流れてきた窪地がちょうどボトルネック上に狭まっている場所でもある。 前回記したように、これより下流側は練馬区東大泉の白子川上流端まで、断続的にしか川の痕跡が残っていない。それらをプロットしたのが下の図となる。google map/google earthのはめ込みが出来ないので、google earth画面キャプチャから。濃い青線が暗渠/川跡、そして井頭池と記した地点より北の太い青線が白子川となる。画面上を横切る西武池袋線上のマークは保谷駅だ。画面左下で新川の暗渠が都道234号線に突き当たって途切れた後、北に2カ所ほど断続的な暗渠があり、その先は白子川上流端のすこし上流から再び暗渠が始まっている。この区間、新川はどのように流れていたのかは、わずかな痕跡と地形、資料からミッシングリンクを探すしかない。

同じ範囲に「東京地形地図」で公開している、国土地理院刊行5mメッシュ地図に基づく段彩図と等高線を重ね、痕跡のない流路を地形や資料から推定しプロットしたもの(水色の線)を加えたのが下の図だ。 「白子川を知っていますか」などによると、かつて水路は天神山交差点からかえで通りに沿って北上していたという。 ただ、プロットされた微地形をみると、窪地は直接北に延びているのではなく、天神山交差点の東側をいったん200mほど東進し、練馬区との境界線近辺からぐるっと北〜西へと回りこんで、天神山交差点の北150〜200mほどで、かえで通り沿いに戻った後北上している。ちょうどそのライン上に交差点北側の断続的な水路跡が乗っている。もしかすると、新川は本来この回り込む窪地に沿って流れていたのではないだろうか。図面にはまっすぐかえで通りを行くルートとぐるっと回り込んで行くルートの2つを記してある。

先に触れた西東京市東町5-4に残る水路跡の区間には、googlemapなどにも描かれている短いコンクリート枠水路がある。この水路、全く水は流れていないが、両端が非常に特徴的だ。というのは、水路が掘り下げられているのではなく、ベースの地面に対して水路のあるところだけ、その両側が護岸分の高さだけ盛り上

[89] 保谷と谷保はなにがちがうのか - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/140314163557_2.htm

ラー油の瓶のような、どぎつい色使いで目の前に現れた看板には、ここが白子川の起点であると書かれていた。川のはじまる場所だ。なになにこういうの興味ある!

と思って橋の上から覗いてみると、水の流れていないコンクリートの水路があって、少し先の深くなった場所から水が流れていた。

[90] マセ口川 - 川のプロムナード, , http://riverpromenade.blog.fc2.com/blog-entry-49.html

2015.05

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2015.07

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流 マセ口川 (ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。 マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名 の由来は不明のようだ。 まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、 青渭神社 に立ち寄ってみる。 祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民 が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。 かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天 神社とも称されていた。 境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) さて 都立農業高校神代農場 からマセ口川を追い始めてみる。 前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として 譲渡された。 毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、 仕方なく西側沿いに歩いていく。 農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。 農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。 歩いていくと中央高速手前、右手に小さな 池ノ上神社 がある。 絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と 池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。 池ノ上という名前が興味をそそる。 その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。 谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。 その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。 ここから南へ 深大寺自然広場 が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と なってしまう。 中央道のガードを潜ると広場内に 野草園 がある。 園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意 が必要である。 その野草園の入口近くには湧水があり、かな

[91] 暗渠ハンター 涯のうえした・狛江喜多見に成城学園: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-16a8.html

もう1ヵ月も前の話ですが、小田急線・狛江駅駅前の泉の森会館というところで「六郷用水の今と昔」という小さな展示が行われていたので見に行ってきました。

六郷用水とは、小田急線が多摩川を渡るあたり(駅でいうと和泉多摩川駅)のちょっと上流から取水し、狛江、喜多見、世田谷の西端方面jからずっと下流の大田区・品川区あたりまで網の目のように続く、付近の田畑を潤していた用水です。つまり、国分寺崖線の下に広がる農地にぶわっと拡がっていたわけですね。 その、特に狛江周辺の昔の様子を地図や写真、絵で解説する、という展示でした。六郷用水についてはまだあまり詳しく知らなかったので、この上流のほうの全体像を把握するにはとても勉強になりました。

さて、ついでですからこのあたりの暗渠や湧水を見て回って帰りましょうかね。

展示施設のすぐ隣、もう狛江の駅のまん前には泉龍寺弁財天池という大きな池があります。 奈良時代からいつの旱魃にも枯れることなく一帯を潤してきた湧水でしたが、1972年の11月に枯れ尽きてしまったとのこと。現在は復元された姿となっています。ちなみに、隣の駅は「和泉多摩川」ですが、この「和泉」というのはこの池から取られたという説もあるようです。

さて、池つながりでもうひとつ。駅を新宿寄りに二つ戻って(狛江→喜多見→成城学園前)成城学園前に降りてみます。 狛江、喜多見と成城学園前。駅は至近距離ですが決定的に違うのは、国分寺崖線の崖下なのか、崖上なのか、という点。もちろん成城は崖上です。崖線には野川が流れており、崖上の成城側には当然国分寺崖線湧水ポイントがいくつか。 成城から歩いてこの湧水を見に行ってみることにします。

てくてく歩いて崖線近くにまで来ると現れるのが「みつ池」。しかし残念ながら保護区域に指定されていて、柵に阻まれ近づくことができませんでした。・・・無念。

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※訂正・・・さきほどまでここであたかも「みつ池」の如く池の写真を掲載しておりましたが、あれは先の「泉龍寺弁財天池」の画像でした;;;;;申し訳ありません、お詫びいたします;;;;

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近くのベンチでビール休憩したあと、なんとかこの池から野川に流れ込む様子を見られないかと崖を降りてみつ池の下あたりをうろう

[92] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[109] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933439826

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