保谷

保谷

[1] 保谷

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[2] 保谷と谷保はなにがちがうのか - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/140314163557_1.htm

東京の西部に、保谷(ほうや)という駅と谷保(やほ)という駅がある。

似た地名でもたとえば田川(たがわ)と川田(かわた)とかだったら、近くにあっても特に関連を深く考えることもないだろう(というか両方すぐ水に浸かりそう、と思うけど)。だけど「保&谷」の組み合わせである。この2つの地域、ほとんど同じと言っていいんじゃないかと思った。

そこで、両方の駅のまわりを歩いて、なにがちがうのかを探ってみた。

[6] @nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」, , http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/2.htm

ほんと、ひとりひとり全く異なる形で面白い。ひとつとして同じ東京はない。

にょろりんぱさん、その名前のにょろりんぱな雰囲気と異なりかなりシビア。やっぱり東側が特に。

京葉線が八丁堀、総武線が浅草橋、というのはまあよくある西高東低ぶりだが、常磐線、京浜東北線が共に上野までっていうのにはびっくり。まあ、分かるけど。

足立区はおろか、北区も板橋区もそっちのけ。ちょうシビア。

ただ、ただ西高東低というだけでなく、注目は西側の線による気まぐれっぷりだ。中央線、京王線がそれぞれ立川、府中までとかなり寛容なのに、小田急線はなんと下北沢。東海道線も品川まで。なのに東横線は新丸子。いやはや、線によって明暗が分かれた。

なんでしょうか、このきまぐれは。めずらしい。

中央線の色から「きまぐれオレンジロード」と呼んでも良いかと。いや、良くない。すまん。

西高東低極まれり。まさかこういう手に出るとは!

こういう手、ってどういう手かっていうと、無視ですよ。

ご出身が京都という、しかとさん。 東側だけではなく全体的にシビア。中央線は荻窪、田園都市線も駒沢大学、となかなかの厳しさ。形はなんか男の人の横顔に見える。犬吠埼あたりをじっと見据える男性。

ちょっとおもしろいのは、池袋線が保谷っていう点。これに関してのコメントは

『西武池袋線は上京して最初にすんだのが保谷だったので、そこから東京なイメージ。あそこが東京じゃなかったら「上京」じゃなくなるので!』

なるほど。全体的に厳しめであるのにもかかわらず唐突に「保谷」というご乱心にはそういった身びいきがあったのか。

で、「無視」ってどういうことかというと、東方面の代表、我が千葉の誇り、総武線の回答がなかったのだ。いや、「ついうっかり」っていうことかもしれないが、だとしてもこのうっかりがよりによって総武線に対して発揮されたということにはなにか深層心理的なものを感じざるを得ない。

これまで「江東区、江戸川区は東京じゃない」といった、西高東低マインドを多く見てきたが、「無視」は初めてだった。お名前をご入力いただけなかったので、「しかとさん」とさせていただいた。

それにしても無視かー。やっぱり京都人こわいわー。

ちょう厳しい人たち

さて、千葉っ子のぼくにとって朗報なのは、東側だけではなく全方位に厳しい方々がしばしばいらっしゃる、という事実だ。

どう

[7] 2白川郷の地名呼名 | 白川郷の歴史と文化や旅行と見どころ, , http://cloud-line.com/travelshirakawagou/history20/

白川郷の歴史と文化や旅行と見どころ The history, culture and a travel, and highlight of Shirakawa-go

岐阜県大野郡白川村 境川 白川村の北端と越中(富山県)の国境に「境川」という川が流れていたのである。 小白川地区 白川村の北端に「小白川」地区があったのである。 打越峠 小白川地区の山から西に通じる峠が「打越峠」であった。この打越峠北の尾根上に小白 川砦があったのである。 籠の渡し小白川 小白川と越中(富山県)を結ぶ国境の境川という川に「籠の渡し小白川」があったので ある。 小白川砦 小白川の打越峠北の尾根上に「小白川砦」があったのである。 加須良地区 椿原地区から西の山奥に「加須良」地区があったのである。白川郷の北海道といわれた 秘境が「加須良集落」で、山々に囲まれた全くの別天地でした。加須良地区には外部から の電話、電気は引線されておらず、昭和43(1968)年の離村するまで電気は自家発電?(谷 川を利用した水力発電)の生活であった。昭和42(1967)年に離村。 加須良川 加須良集落から、椿原の北の庄川まで流れたいたのが「加須良川」であった。「加須良集 落から加須良川沿いを下って椿原北まで通じる道」(距離約6km)は、近代の道で昔はあり ませんでした。加須良川沿いに、加須良林道が昭和36(1961)年に完成してようやく「自 動車が」加須良集落まで入れるようになったのであった。 蓮如峠 加須良地区から南南東に「蓮如峠」があった。昔は、蓮如峠→加須良集落→越中(富 山県)桂集落→加賀(石川県)に抜ける道があったのである。1469~1486年(文明年間) 蓮如上人が白川郷加須良集落を訪れ、蓮受寺に休泊されたという言い伝えからこの「横谷 峠~蓮如峠~加須良集落」へ通じる道が古くからあったことが分かるのである。 芦倉地区(庄川の東、右岸に位置する) 椿原地区 籠の渡し椿原 椿原集落と芦倉集落の庄川に「籠の渡し椿原」があったのである。 有家ヶ原地区(庄川の東、右岸に位置する) 内ヶ戸地区 椿原ダム建設により昭和13(1938)年までに離村、水没したのであった。 内ヶ戸歩危 内ヶ戸集落の北と南に「内ヶ戸歩危」があったのである。迂回路は内ヶ戸集落から西に 山を越えた、馬狩谷沿いを通行してい

[8] 白子川上流部ー地下水堆とシマッポー(1)新川南支流 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/14121561/

白子川は練馬区、板橋区、そして一部が埼玉県和光市を流れる、荒川の支流「新河岸川」の更に支流の川だ。源流は、西武池袋線大泉学園駅の南西約1km、練馬区東大泉7の大泉井頭公園の湧水。練馬区内北西部を北東に流れ、更に板橋区と和光市の境(東京都と埼玉県の県境)に沿って進み、板橋区の北西端である三園で新河岸川に合流する。石神井川、神田川、渋谷川、目黒川などとならぶ、武蔵野台地を流れる代表的な中小河川のひとつだ。 1980年代前半までは都内の河川の汚染ワースト1だったが、現在では下水道の普及や流域住民・行政の努力で、清流が取り戻されていること、沿岸の崖線に沿って湧水が数多く残されていることなど、興味を惹かれる部分も多く、あまり馴染みや土地勘のないエリアではあるが訪ねてみたい川のひとつだった。 今回、白子川の源流部と、そこにつながる2つの川の暗渠を辿ってみた。かなり面白かったものの記事にするには延々と蓋暗渠が続き、やや単調になるかなと思っていたのだが、その後これらの川を調べていくと「地下水堆」と「シマッポ」という興味深いキーワードが出て来たので、それらと絡めて紹介したい。 今回辿った2つの川のひとつは、白子川源流の大泉井頭公園から更に上流部に向かって伸びる、いわば白子川の幻の源流ともいうべき「新川」(上保谷のシマッポ)。そしてもうひとつは、大泉井頭公園から1.2kmほど下ったところで合流している「大泉堀」(下保谷のシマッポ)。いずれもその全て、もしくはほとんどの区間が暗渠化されている。 流路のイメージがつくよう、googlemapにプロットしたものを作成したのでご参照を。また、白子川、新川、大泉堀の流路については、都内北部〜西部の川や暗渠のレファレンスサイトといえる「東京西北部の中小河川」が簡潔かつ詳しいのでそちらもご参照を。 主な参考文献としては、「白子川を知っていますかー水辺再生に向けて」(白子川汚染対策協議会、1994年刊)や古地図、「みどりと水の練馬」(練馬区土木部公園緑地課、1990年刊)「田無市史」(1995年刊)「保谷市史」(1988年刊)など。なお、田無市と保谷市は現在合併して西東京市となっている。 まずは、白子川の上流部「新川」(上保谷のシマッポ)から辿ってみよう。新川の上流部は2つに分かれている。西東京市(旧田無市)谷戸町1丁目に発する北側の流れと、そこから南

[12] 埼玉県新座市内 練馬区の飛び地の謎 | リアルホーム武蔵境Blog, , http://rhm-blog1.jugem.jp/?eid=30

飛び地という言葉はご存知でしょうか?

明治以降(?)市町村が合併を繰り返す度に境界線の

策定が繰り広げられてきたようですが、もともと住んでいた

土地の上に突然見えない境界線が引かれ、「あなたは〜市住民」、「あなたは〜町住民」と、行政の都合で分けられたようです。

そこで、元々住んでいた住民の強い反対があったからでしょうか。

昔の地名、市町村の地名のまま住みたいという強い希望があり、

本来ある

『市町村として境界線が一本で結ばれるエリア』

以外にもその地名が発生する事が稀に起こり、これが飛び地として

未だに残っております。

この飛び地ですが、東京都練馬区に飛び地があり、

これが埼玉県新座市に存在するのはご存知でしょうか?

埼玉県新座市片山3丁目の中にある練馬区の飛び地は

”練馬区西大泉町”

として、丁目も無く、単独で存在します。

私が聞いた話ですと、この飛び地のエリアですが、とある開発分譲

業者がかなり昔に”埼玉県新座市”にあるにもかかわらず、

業者の勝手な勘違いで”東京都練馬区”と申請したらしいのです。

そのまま練馬区、新座市の眼を素通りし、練馬区として認可されてしまった為に、

未だに飛び地として埼玉県の中にポツンと

練馬区が存在してしまう事になったそうです。

ここで我々不動産屋として面白い側面を見る事になるのですが。

なんども飛び地の解消をしようとしても、住民の強い反対に遭って

そのまま飛び地として存在しているようです。

この事の何が面白いのか・・・

なぜ、新座市に組み込まれる事を頑なに拒否するのか?

なぜ、この見えないラインに固執するのか?

それは自分の土地が

練馬区西大泉なのか、埼玉県新座市なのか、、、

という事に重きを置いているという点でしょうね。

当然、23区と市町村部であれば、隣接地であっても

多少は評価が異なりますので、売買取引価格は変わってきます。

サンプルとして、西武池袋線の大泉学園、保谷の駅を取ってみると

分かりやすいのですが、練馬区西大泉、西東京市北町、新座市野寺、

新座市片山で比較してみると面白いです。

道路付け、土地の面積、周辺環境、土地の形、日当たり加減など、

大体が同じ条件の下で比較したとしますと、

東京都 練馬区 西大泉 > 東京都 西東京市 北町 > 埼玉県新

履歴

[13] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933439805

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