御幸坑

御幸坑

[1] 院内銀山御幸坑

Webページ

[2] 私的な宇宙船地球号 院内銀山跡訪問① 中編, , http://sentyo.blog81.fc2.com/blog-entry-186.html

金山神社。平成20年に大部分が修復されたが、文政13年(1830年)に建築された社殿の一部は残っているようである。現在も祭りの舞台となるなど唯一人の匂いのする場所でもある。

これが天保期に描かれた銀山の俯瞰図である。デフォルメが強い。当時の人口は7000人ほどであったと考えられている。現在は金山神社を残して跡形もなく消えている。 こちらは明治13年の地図。より正確に描かれており、見えにくいが地図の端、現在の松ノ木峠付近まで坑道が延びている。 現在の地形図。跡形も無いものの、切り拓かれた場所であることが分かる。 さて、現存する坑道の一つ、御幸坑が見えてきた。 立ち入ることは出来ない。なかなか立派な作りをしているが、実はさらに屋根がかけられていたことが異人館の写真からわかる。 なぜ出入口が一つしか無いのかという疑問が浮かんだ方もおられるだろう。ようは金銀の個人による持ち出しを防ぐためである。特に金は1トンの鉱石から2グラム取れれば採算が合うらしく、僅かな鉱石すら持ち出されぬよう取り締まる必要があった。よって作業の服装は褌一丁、裸同然であり、厳しい身体検査が行われた。禁を破ったものは重罰を課せられ、最悪死罪、追放されれば日本の鉱山には出入り禁止の徹底ぶりだったという。 中は厳重に閉じられている。この扉の向こう、しばらく進むと竪穴にあたり、これは上部に位置する第一山市竪坑から実に410mの深さがあるという。ここまで深くなると、それは地下水との戦いでもあり、水抜きのために大切疎水道が作られた。出口である大切坑がすでに水没していることを考えると、御幸坑から降りて大切疎水道に達する辺りはすでに水の中かもしれない。 なお、御幸坑の横には小道があり、小規模ながら墓地がある。年代は先の墓地と同じだが、特に案内や看板などは無し。以前あった西光寺の名残だろうか。 御幸坑の先には、なにやら水場のようなものが見える。 思わぬところで名水発見。 味は…まぁ普通。ちょっと一般人だと飲むのをためらいそうな水回り。多分雰囲気が味を悪くしている。 こういうのは覗くのに勇気がいる。底の見えない水って怖い。 浅かった。沢ガニが侵入していた。沢ガニは「きれいな水」の指標生物なので、この御前水および沢が汚れていないのは確かなようである。 さらに進むとちょっとした景勝地のようなところに出る。 寛永開坑ということ

[3] 院内銀山, , http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/innai/innai.html

院内銀山

秋田県雄勝郡雄勝町 院内銀山 (熱水鉱脈鉱床)

最終更新日2000/05/12 拡大写真リンク修正

院内銀山は慶長11年(1,606年)村山宗兵衛はか3名によって発見されたわが国有数の銀山で、佐竹藩の重要な財源の山であり、

同時に天下の御役山としても幕府におおいに重要視された。

元和3年(1,617年)中、すでに1,300戸、7,100人余りの大集落地となり、年々の産銀額も増大し、諸国より遊芸人・

文化人も多数入り込み「出羽の都」とまで言われる繁栄を示した。

しかし、良鉱のみを採掘したため一時不況となったが、幸い文化4年(1,807年)より銀山ふたたび大直りとなり、藩においても

直営として積極的に援助した結果、天保の頃は発見当初に劣らぬ大銀山となった。特に天保の中期には「天保の盛り山」と称され、

年間約3,800Kgをこえる産銀が、10年以上も続く好況であったと言われている。

当時、戸数4,000戸人口15,000人を数え、久保田城下(今の秋田市)をしのぐ程であった。

明治初年、藩より一時小野組さらに工部省に移され、巨大な投資により近代化された。

明治17年(1,884年)古河市兵衛に払い下げされ、この時期、次第に産銀額が増大し、明治中期には実に年間15トンを産出

するわが国第4位の大銀山となった。

その後、銀価の崩落と金本位制等によって鉱況がいちじるしく不良となり、ついに大正9年採掘を停止するに至った。昭和初年深鉱所

を設置したが、昭和29年(1,954年)全山休山となり約350年の歴史は終わった。

産出鉱物

金・銀

[4] 院内銀山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%86%85%E9%8A%80%E5%B1%B1

院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。

歴史[編集]

江戸時代[編集]

院内銀山は、1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、開山した。1617年にローマで作成された地図にもその名が記されている。金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。久保田藩(秋田藩)によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。

江戸時代の中期に、鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、1800年以降新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下町久保田(現在の秋田市)を凌駕する藩内で最も大きな街となり、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。天保年間には、久保田藩から院内銀山に、門屋養安という医師が派遣された。32年にわたって、医師のみならず銀山の経営にも携わり、宿屋の経営も行った。彼は院内銀山の全てを知りうる立場であり、彼が著した『門屋養安日記』には、銀山の経営から採掘技術、季節の風物詩、風習、衣食住から、銀山で発生した事故・疾患・天災に至るまで事細かに記されており、幕藩体制下の院内銀山を知る貴重な資料となっている。

他の主要鉱山が幕府直轄地であったのに対し、院内・阿仁の両鉱山を有し、ともに藩営とした久保田藩は、森林資源を「木山(きやま)」、鉱山資源を「金山(かなやま)」と呼び、両者によって財政的には潤ったともいわれている。また、伝統工芸の秋田銀線細工も豊富な院内銀山の産出した銀によっている。

明治時代以降[編集]

明治時代になると、鉱山の経営権が工部省に移る。雄勝峠の整備により大量に鉱物を輸送することが可能になり、1881年(明治14年)には明治天皇が行幸した。そのときに天皇が入った坑道が「御幸坑」であり、現存している。なお、明治天皇が行幸した9月21日は、鉱山記念日となっている。その後、鉱山王古河市兵衛が働いていた小野組が経営権を握り、小野組が解散した後の1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられた。古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、同時に買収した日本国内のほかの鉱山から西洋で学んだ技術者を連れて来て、近代的な鉱山経営を行った。これにより、ますます銀の産

[5] 院内銀山の歴史 | あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト, , http://common.pref.akita.lg.jp/genkimura/village/detail.html?cid=39&vid=1&id=1635

院内銀山は慶長11年(1606年)、村山宗兵衛をはじめとする4人によって発見され、翌年の慶長12年(1607年)に開山となりました。

初期の労務者は7000人にも上るといわれており、開山のこの年には徳川家康に院内銀を献上しています。院内銀山は金や銀を産出し、その産出量により久保田藩の財政を支える重要な財源となっていました。

江戸時代も中期に差し掛かった天保4年(1833年)、院内銀山は鉱脈の枯渇や木炭不足により衰退を見せていました。そんな中、田んぼや山林などの私財を投じ天保の大飢饉から農民を救った「高橋正作」が、救農対策を兼ねて院内銀山へ木炭を供給したことにより、院内銀山は再び力を取り戻していきました。19世紀以降には新たな鉱脈を発見し、この頃、院内銀山史上一の繁栄を見せました。

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933409061

メモ