大谷橋

大谷橋

[1] 大谷橋

Webページ

[2] 国道352号part5(福島県南会津町〜栃木県日光市), , http://route01.com/r352p5.html

早坂交差点を右折するとR121・R400と重複しながら会津鉄道のガードをくぐる。100番代国道との重複区間であるため交通量は少なくない。勾配はさほどきつくないが常に上りが続いているうえに登坂車線がないため前に大型トラックがいると少々厄介かもしれない。そんな時は早坂交差点と県境の山王トンネルの中間にある道の駅「たじま」で一休みするという手もある。もっとも週末は結構な混雑を見せている。

そしてこの区間最大の特徴はR121・R352・R400の3つ串刺しおにぎりの存在だろうか。新潟県内及び早坂交差点以西の福島県においては3つどころか2つ串刺しおにぎりですら立てられていなかったというのに。

[3] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/narugo.html

鳴子隧道は、山形・宮城両県の北部を結ぶ重要な幹線、かつては北羽前街道と呼ばれた国道47号線にある。

東北有数の温泉地として古くから栄えたる鳴子温泉の程近く、大谷川の両岸に垂直の断崖が続く、鳴子峡と呼ばれたる難所に、隧道はある。

残念ながら、この隧道について私の知る情報は少ない。

どのような経緯でこの隧道が廃されたのかなど、気になることは多いのだが。

というわけで、早速だが、現地のレポートをご覧いただこう。

2003年4月、まだまだ山は冬の装いだが、里から春が上ってゆく。

自宅から150km以上離れた鳴子町は、秋田県とは県境を接する。

鬼首道路の開通でだいぶマシにはなったが、やはり宮城県は遠い隣県である。

鳴子町内の国道47号線の旧道。

1996年頃、この近くのJR鳴子御殿湯駅で仮眠したことを思い出し、懐かしく思った。

あの頃とは、走り方も、考え方も、旅の目的も、自転車も、年も、変っていないものは何も無い。

しかし、それでも、山チャリと称す自転車遊びだけは、全く飽きもせず続けている。

木の香りがする店先では、鳴子名物のこけしたちが、やさしい笑みを浮かべている。

なんか、鳴子って、好きな町だ。

2車線の立派な国道に合流すると、早速登りが始まる。

山形県境までの10kmほどはなだらかな登りが続くが、特にここからの鳴子峡は難所とされる。

早速私を出迎えてくれたのは、立派なアーチの旧橋であった。

現国道に沿って、僅かな距離だが旧国道が残っていた。

旧橋は、鳴子橋の遊歩道へのアクセス道路として利用されているだけでなく、駐車場と化していた。

なんか、橋のダメージが心配だ。

それにしても、立派な開腹アーチ橋である。

現道がどうしても視界に入ってしまうが、さぞかし紅葉に映える橋だろう。

対岸からの眺め。

この日は、工事中とかで鳴子峡の遊歩道は通行止めになっていた。

しかしそれでも、ずいぶんとたくさんの観光客が訪れていた。

平日だというのに。

この橋の名は、大谷橋。

昭和8年3月の竣工と、銘板が現存していた。

山中の橋としては、異例に古い!

昭和8年といえば、まだ秋田県内では数橋しか永久橋は架設されていなかった。

やはり、宮城県は進んでいたようだ。

現橋(新大谷橋)が、昭和47年の竣工なので、現役を退いてからもう少しで30年

[4] 道路レポート 六厩川橋攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/morimo/main2.html

綺麗だ…。

出発地がある小鳥川の谷間を見事な雲海が覆っていた。

足元に発する「なぶし洞」のV字のシルエットもまた美し。

この景色に祝福されつつ、森茂峠は極まった。

8:05 【現在地】

林道の入口から3.3kmの地点で、本日行程の最高所である海抜1112mの「森茂峠」に到着した。

ちなみに、これまでフリガナをふってこなかったが、「森茂」の読みは「もりも」である。

あと、前に「六厩」の読みを「むまい」としたところ、「むまや」が正解ではないかというご意見を頂いた。

なるほど、いまは「むまや」が一般的なようです。訂正したい。(「むまい」は旧版地形図にある読み方)

峠はどこにでもありそうな掘り割りだったが、結構深く切り下げられている。

登ってきた東側は谷が大きく開けているのに対し、これから向かう西側にはちょっとした広場があるようだ。

また、一本の杉の木がぴょこんと正面で目立っている。

広場と思った場所は、別の林道との分岐地点であった。

本線は真っ直ぐで、左へ行くのは支線だろうか。

標識もなく路線名は分からないが、地形図では3km以上も尾根に近い所を縦走して行き止まりになっているようだ。

私はもちろん直進する。まだまだ轍の数は衰えていない。

そして、存在感のある杉の根元に小さな祠が祀られていた。

立ち寄っていこう。

この言葉は曖昧すぎると思いながらも、同じ日本人なら分かってくれるだろうと信じて使う。

これは“好ましい感じ”のする峠の祠だ。

祠自体というよりも、置かれた峠というシチュエーションが心に響く。

峠に神さまを祀るというのは古くから日本人に共通する美意識だったようだが、飛騨地方では今でも数多くの峠に地蔵堂が残る。

一般の交通網からは完全に隔離され、ともすれば忘れられてしまいそうな森茂の峠。

ここに祀られた地蔵には、どんな人々の祈りが込められているのだろうか。

さらに近付いてみよう。

祠には、深い愛情がこもっていた。

格子扉の向こうに、素朴な作りの石地蔵と木彫りの仏像とが、寄り添うように安置されていた。

クッキーの缶を改造した手作りの賽銭箱が置かれていたので、今日はいつもより大きな加護を祈願して100円を投入した。

扉の上に、年代の異なる3枚の額が掲げられていた。

1枚目は、賽銭箱に集まった浄財をもって平成元年に祠の屋根を掛け替えた

[5] 森茂 2002年 5月5日, , http://www.geocities.jp/tdr2508401965/4a15s2.html

森茂 2002年 5月5日(日)

友人の I氏と 約20年ぶりに 森茂を 訪れた。

2002年 5月 右が 森茂村跡

森茂林道入り口 青が道 ・ 赤が崩れた道

赤が 崩れている カ所で 車通行は 不可

2年ぐらい前の集中豪雨で この谷間が 変貌したようだ

大谷橋を脇に 森茂峠を下って 崩れた道

左が御母衣方面 右が森茂への道

森茂橋

森茂橋から数百m進んだ崩れた道

森茂村手前の崩れた道

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[6] 中山越、堺田越(宮城県・山形県)<峠と旅>, , http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge_6n/nakayamagoe/nakayamagoe.htm

山越は宮城県・山形県の北の方で両県の境を越えている峠だ。南北に細長い東北地方にあって、その脊梁(せきりょう)を成す奥羽山脈を跨いでいる。いわゆる

大分水嶺の峠となる。しかし、峠を越える国道47号の県境部分は、上の写真からも分かる通り、どう見ても峠らしくない。大分水嶺は全く他の所にあったの

だった。

この中山越は過去に4回ほど通っているが、その度に不思議な気がしていた。これといって険しい峠道ではなく、よって素通りが多かったのだが、どうにも不可解なのが気になっていた。そこで4度目にしてやっと峠の周辺を探索したのだった。

県境と大分水嶺が異なるのは、古い国境から引き継がれている事情らしかった。昔の出羽仙台街道中山越の旧道が一部に保存され、国境らしき場所があった。また、松尾芭蕉ゆかりの「封人の家」が立ち、大分水嶺に位置する堺田駅があった。中山越はいろいろな顔を見せてくれる。このホームページ「峠と旅」に掲載してきた峠は、それなりに険しい峠ばかりの中、この中山越は少し異色ではあるが、それなりに面白い峠である。

峠名は「中山越(え)」(なかやまごえ)とか「堺田越(え)」(さかいだごえ)、あるいは「中山峠」、「堺田峠」と書かれている地図も見掛ける。場合によっては「堺田」の代わりに「境田」の字が当てられることもある。

「中山」は峠の宮城県側にある地名、「堺田」は山形県側にある地名で、そのどちらを取るかで峠名が大きく違ってくるようだ。後は「越」を使うか「峠」かの僅かな差である。

「中山」という名の峠はいろいろあるが、「堺田」という峠は他に見たことがない。このページトップの表題も、できれば大きく「堺田越」としたかっ

たのだが、道路地図などでは「中山越」と表記している方が多い。国土地理院の地形図も、峠名の記載はないものの、道の名を「出羽仙台街道中山越」と記している。どうやら「中山」の方が市民権を得ているようなので、それに従うこととした。

ただ、文献(角川日本地名大辞典)を調べてみたところ、「中山越」はなく、「堺田越」での掲載だった。また、「境」の代わりに「堺」の字を使うのも珍しく、「堺田越」という名は、捨て難い峠名である。

[7] 2., , http://www42.tok2.com/home/ht990/ooya.htm

2.旧大谷橋(宮城県大崎市鳴子)

国道47号線が、鳴子峡を形成する大谷川を跨ぐ大谷川橋の南隣に古いコンクリートアーチ橋が残っている。

現道よりかなり低くなっている位置関係のため、国道47号走行中に車窓から確認することは難しいが、付近の

パーキングに車を停め、降り立って少し歩くとすぐ、大規模で優美な橋の姿を眺めることが出来る。

観光客の連絡通路として機能

新規の高欄

現在でも観光客用として現役であるが、現在の安全基準では今までの高欄の高さでは

心許なく、新規に黒い柵が追加してある。転落すれば即死であるため当然であろう。

親柱には昭和8年の竣功であることが示されている

銅板の銘標も古びているが、竣功当時のものであるかは疑問である。親柱の飾り気のない意匠は

これだけの橋に備えられたものとしては役不足であり、同年代の橋の例からしても後年のものである

可能性が強い。戦時中の金属回収を経て銅板の銘標と高欄に仕込まれた鉄材が見逃されて残った

とは考えにくく、事務的な面取りによる四角柱の形状も昭和初期の親柱としてはあまりにも素っ気ない。

また、急激なカーブを描く高欄の部分も昭和初期のコンクリート技術に因るものとは思い難い。

金属製銘標

観光地 鳴子峡

この橋が未だに残されている理由は、この橋の持つ歴史的な価値と言うよりも

先に述べた観光客連絡通路の機能と紅葉時の物見台の機能が考えられる。

この観光用の機能を持つ限り、今後も長期にわたり活用され続けると思われる。

大谷橋 昭和8年竣功

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履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933403751

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