国道46号

国道46号

[1] 国道46号 (こくどうよんじゅうろくごう)

Webページ

[2] 国道46号 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%9346%E5%8F%B7

国道46号(こくどう46ごう)は、岩手県盛岡市から秋田県秋田市へ至る一般国道。奥羽山脈を横断し、秋田県と岩手県の県庁所在地を結ぶ重要路線。

[3] 君の知らない旧国道 - 6日目その1 [雫石〜橋場], , http://ccsf.jp/~mwe/tour/20100731/6-1.html

遂に自転車人生初めての『6日目』に突入しました。今日こそは絶対に秋田へ辿り着くぞっ。現在地は岩手郡雫石町, 既に秋田県と接しているんですから。

しかし, ある意味, これからが今回の旅の本番と言っても過言ではありません。秋田へ走るのも3年目, 今年この経路を選んだ理由は, 間違いなくこの先にあるのです。さあ, まずは山へ到ること。そして山を登ること……

いつものように早朝から身支度を整え, 一宿のお礼を言って05:40に出発します。勿論, 朝食抜き。……この先, 最短距離で雫石市街を抜けようとすると, コンビニも何も全く無いんですよ。それは流石にまずい(8年前の青森3日目どころの話ではない)ので, 一旦R46雫石バイパスへ向かいました。こちらにはコンビニが2軒あることを確認しています。

で, 辿り着いたのはサンクス雫石バイパス店。ありがたやありがたや。

ここまでの走行記録(笑)……走行時間0.03.54, 走行距離1.08km, 平均速度16.9km/h, 最高速度38.2km/h(街道→雫石町役場), 総走行距離9,305.6km。

朝ごパンです。……失敗でした。茹で卵が, 堅茹ででした。私, 堅茹で卵って駄目なんですよ……口の中が粉塗れになる感触がひたすら気持ち悪くて。同じ理由で小豆餡が駄目なので和菓子が苦手だったりもします。しかし食べ残すのは矜持が赦さないので, 無理矢理にでも食べます。

更に栄養ドリンクと, 水分・凍結水分を買い込んで, 06:10改めて出発。

[4] 滝沢市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E5%B8%82

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、南岩手郡滝沢村・鵜飼村・大沢村・篠木村・大釜村の区域をもって滝沢村が発足。

1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡が岩手郡に変更。

1965年(昭和40年)10月25日 - 村章・村歌・滝沢音頭を制定[1][2][3][4]。

1989年(平成元年)4月1日 - 村制100周年。

1990年(平成2年)8月17日 - 村民憲章を制定[5]。

2014年(平成26年)1月1日 - 滝沢村が市制施行して滝沢市となる。

単独市制移行に向けての経緯[編集]

2013年12月1日の時点で岩手県内13市15町5村のうち7番目に人口が多く、市に昇格可能なだけの人口には早くから到達していたものの、長らく「村」にとどまっていた。これは、峠を挟んで巣子地区(旧・滝沢村周辺)と鵜飼地区(旧・鵜飼村周辺)に世帯・商業地が分散してしまっているため、村内にはっきりとした市街地の集積がないことや、村民の多くは隣接する盛岡市に通勤・通学し、普段の買い物に関しても盛岡にほぼ依存しており、盛岡市のベッドタウンとしての位置づけが強いことなど、人口以外の「市となる条件(地方自治法 第八条第一項)」を満たしていないためであった。

さらに、市となる条件を満たしていないという直接的な理由のほかにも、「村」という言葉に人が抱く「のどかで豊かな美しい場所」というイメージのブランド性を維持するためという、戦略上の理由もあった[6]。

中核市指定を目指していた盛岡市との合併案も持ち上がり、盛岡市では合併協議会も設立されたが、滝沢村民による強い反対により実現しなかった。なお盛岡市は2006年(平成18年)、岩手郡玉山村を編入合併して人口30万人を達成し、2008年(平成20年)4月に中核市に指定されている。

滝沢村単独で市制施行することについては、1997年(平成9年)に当時の村長だった柳村純一が意欲を示したものの、その時は結局実現に至らなかった。しかし、全国の人口5万人以上の町村は大半が単独市制に移行している[7]ことや、2009年(平成21年)度の村民アンケートで盛岡市との合併に反対する意見が63.5%と、2007年(平成19年)度調査より2.2ポイント上昇していることなどを背景に、2011年(平成23年)から市制移行に向けた動きが再び始ま

[5] ミニ・レポート, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_44.html

国道46号線の難所といえば、誰もがまず仙岩峠と答えるところだろうが、そのそばに小さくとも厳しい難所があった。

その名を、“へぐりの難所”と言った。

国道46号線を秋田から盛岡へと進み、仙岩峠を越えて進むこと10kmほど。

久々の集落である橋場に差し掛かる直前、峠から寄り添ってきた竜川の両岸に蒼蒼とした崖が迫る。

この先が、かつては“ヘグリの難所”と畏れられた道だが、現在の国道はここを避けるように二度、矢継ぎ早に竜川を渡る。

旧道は、真新しいガードレールで無造作に封鎖されている。

引き寄せられるようにして、ガードレールをチャリごと跨ぎ進むと、間もなく「びっくりマーク」が現れる。

仙岩峠の旧国道には、まるでシンボルマークのように点在する同標識だが、やや離れたこの地にも存在していたのだ。

ここで想定された「その他の危険」とはいったい何であったのだろうか?

補助標識もなく計り知れないが、その奥には「落石注意」もあり、何を警戒せよと言うのか分からない。

ただ、実際にこの先は危険な道だったらしい。

いずれにしても、ここが廃止されてしまったことにより、仙岩峠越えの現道からびっくりマークはすべて消えてしまった。

現在の新道は、2002年の12月に開通したばかりであり、開通後は全く利用されなくなった旧道もまだ現役のように見える。

しかし、いよいよ竜川と崖に挟まれると、もうこれ以上進めなくなる。

厳重に入り口を封鎖された落石覆いが、行く手を遮っているのだ。

傍に寄ってみる。

ご覧の通り、車道、歩道とも厳重に封鎖されている。

その様子からは、もう二度と解放する気はないようだ。

歩道をも塞ぐ高い鉄製の扉。

南京錠でしっかりと施錠されている。

扉の向こうには、約100mほどの落石覆いが続いている。

ここからではよく見えないが、出口側も同様に閉鎖されている。

崖下を洗う竜川は穏やかな流れに見えるが、国道が開通する以前には沢山の旅人たちを呑み込んできた。

ここは、恐ろしい雪崩の多発地帯でもあったのだ。

チャリを諦め、単身フェンスを乗り越えた。

内部には恐ろしく殺風景な廃道の姿があった。

ガードレールの外に歩道があり洞門内は2車線が確保されているが、現役当時には痛ましい事故が多発した。

自動車を運転しない者にとっては特別に危険な道には見えないが

[6] 2017年度「事務・権限の移譲等に関する見直し方針」による指定区間国道の旧道廃止(前編) ( その他趣味 ) - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ, , https://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/14361108.html

H25/12/20に閣議決定した「事務・権限の移譲等に関する見直し方針について」により、H28年度も北は北海道、南は沖縄までの指定区間国道旧道の多くが3/31を以って廃止(市町村道、県道に移管等)となった。なのでその箇所を紹介したい。

[7] 橋場駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E9%A7%85

元々橋場駅は、 盛岡駅 から 生保内駅 (現在の田沢湖駅)を経由して 大曲駅 に至る路線の途中駅として計画された駅である。1922年には「橋場線」として盛岡駅から橋場駅までが開業(大曲からも生保内まで「生保内線」が開業)し、橋場駅は橋場線の仮の終着駅として設置された。

しかし、戦中の1944年からは 不要不急線 として雫石駅 - 橋場駅間および橋場駅は休止され [1] 、両駅間の線路は撤去された。

戦後に橋場 - 生保内間の建設が再び計画された際、建設ルートが当初の橋場駅経由のルートから、現在の赤渕駅付近より当初ルートを外れて田沢湖方面に直進する新ルート(現在の田沢湖線のルート)へと変更された。このため、新ルートと当初ルートの分岐点付近に赤渕駅を設置した上で雫石駅 - 赤渕駅までが再開され、その後新ルートにより橋場線は「 田沢湖線 」として全線開業している。

そして、赤渕駅付近から橋場駅までは再開されることなく放棄され、現在に至っている。

年表 [ 編集 ]

1922年 ( 大正 11年) 7月15日 橋場軽便線(後の橋場線)の終着駅として開業

1944年 ( 昭和 19年) 10月1日 太平洋戦争 の影響により休止、 雫石駅 から当駅までの区間は 不要不急路線 として線路や施設を剥がされる。

1964年 (昭和39年) 9月10日 橋場駅手前に赤渕駅を新設した上で雫石駅 - 赤渕駅間が再開業。新ルートの制定により赤渕駅付近 - 橋場駅間は不要となり、橋場駅は放棄

1966年 (昭和39年)9月10日 生保内線(大曲駅 - 生保内駅)・完成した生橋線(生保内 - 赤渕)が橋場線に編入され田沢湖線と改称

1987年 (昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化 により、同線大曲 - 盛岡間は 東日本旅客鉄道 (JR東日本)へ承継されるが、同線雫石 - 橋場間の敷地は 日本国有鉄道清算事業団 へ承継

1998年 (平成10年)4月1日 日本国有鉄道清算事業団が解散、 日本鉄道建設公団 へ承継

2003年 (平成15年)10月1日 日本鉄道建設公団が解散、 独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 へ承継

橋場駅が戦後復活されなかった理由 [ 編集 ]

歴史の節 に上述した通り、戦前の当初計画は盛岡 - 橋場 - 生保内(現・田沢湖) - 大曲と線路を結ぶ計画で、この計画に

[8] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://yamaiga.com/rail/hasiba/main2.html

エターナル・ターミナル、橋場。

小粒ながら、当サイトでも人気の高いコンテンツのひとつであり、実は私も 前のレポート を公開後、新たな発見を求めて何度か再訪を繰りかえしてきた。

なかでも、 転車台 の発見こそは、その最大の目的であった。

転車台(ターンテーブル)とは、地上に設置される回転する円盤状の装置であり、ここに車両を乗せることで、その場にいながら進行方向を変更することが出来る。鉄道の蒸気機関車は、車輪を逆回転させて走行すると、本来の性能を発揮出来ない。そのため、終着駅など、運転の方向を頻繁に反転させる箇所には、転車台を設けることが多かった。

転車台こそは、蒸気機関車時代の終着駅におけるもっとも象徴的な存在といえ、橋場線の終点である橋場駅にも設置されていたと考えられるが、これまで構内配線図などは発見されておらず、その規模や位置も不明のままだった。

この図は、 これまで想像されていた橋場駅の構内の配線 である。

橋場駅は基本的には1番線と2番線の相対式ホームを持つ駅であるが、2番線の北側も路盤と同じ高さの広い空き地になっており、このまま島式ホームとして3番線を設けることが可能である(実際に敷かれていたかは不明)。また1番線ホームの終点側(大曲側)には、終点側に開口した頭端式のホームが存在し、貨物用ホームとして利用されていたと考えられている。

転車台は発見されていないが、ホームの終点側に広大な空き地が存在することから、そこにあったものと想像した。

そしてこれが、この構内配線における、実際の列車の取り回しの想像図(アニメーション)だ。

転車台がこの位置に存在していれば、1番線と2番線に敷設されたレールを用いて、無理無駄なく列車の進行方向を変えることが出来る。

(貨物ホームについては検討を省略した)

だが、3つのホームはほぼ完全な形で現存するにもかかわらず、“コンクリートに周囲を囲まれた円形の窪地”という、特徴的な遺構を残すはずの転車台については、想像された位置をいくら捜索しても、発見することが出来なかった。

さらに、現地の安栖(あずまい)集落での聞き取り調査において、「人力で動かした転車台が(図の位置に)あったが、いまは埋め戻されて跡形も無い」という証言が1件発生したことで、捜索を中止した。

橋場駅の転車台問題は、「現存せず」という判断で終了したかに思われたが、こ

履歴

[13] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933403363

メモ