西之島

西之島

[1] 西之島 (にしのしま)

27.2469444444444 140.874444444444

Webページ

[2] 西之島 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6

西之島(にしのしま)は、小笠原諸島の島(無人島)。1973年に付近の海底火山が噴火し、新島(西之島新島)が誕生、後に西之島と接合し、一体化した陸地となった。そのため、現在の「西之島」の呼称は、西之島新島とあわせた陸地全体を指す。行政区画は、東京都小笠原村。

[3] kaiyo 18西之島, , http://www1.kaiho.mlit.go.jp/GIJUTSUKOKUSAI/kaiikiDB/kaiyo18-2.htm

"父島西方約130kmにある無人島で,南北約650m,幅約200m,島頂は中央部付近(27°14.8'N,140°52.5'E,25m)で,全体として平低な安山岩質の島(SiO2 58〜60%)である. 1973年,西之島至近の海底で有史以来噴火記録のない西之島火山が活動を開始し,新島を形成した.その後新島は西之島と接続し新島の大半が波浪による侵食を受けその一部が現存する.1999年1月現在の新島の面積250,100m2,標高15.2m.新島からシソ輝石普通輝石安山岩,カンラン石単斜輝安山岩が採取されている.SiO2 58.4〜58.9%, Na2O 0.41〜0.42%, K2O 1.12〜1.16%."

[4] 2014<JAMSTECニュース<独立行政法人海洋研究開発機構, , http://www.jamstec.go.jp/j/jamstec_news/20140612/

東京の約1000km南方に、南北約650m、幅約200mの小さな無人島があった。西之島である。2013年11月20日、西之島の海岸線から約300m南東沖に海底噴火が確認され、新島を形成した(2013年11月25日のJAMSTECニュース・コラム参照)。新島は爆発的に、かつ着実にマグマを噴出して成長を続けた。2013年12月、西之島は新島と結合し、一体化した。2014年5月、西之島は、面積は以前の4倍、南北、東西ともに幅1,250mの島に成長した。激しい爆発は船舶の接近を拒み、いまも流出している西之島の溶岩は、未だ採取されていない。しかし、旧西之島は1973年から74年に噴火しており、その噴出物およびそれ以前の溶岩は採取され、分析されている。驚くべき事に、これらの岩石はすべてSiO2(シリカ)量が60%前後の非常に均質な「安山岩」である。安山岩は大陸を形成する物質であり、海の真ん中で噴出するとは、誰も考えてはいなかった。安山岩を噴出する海洋島弧の火山、西之島に多くの研究者が注目している。

西之島は、水深2,000mを越える深さから聳え立つ巨大な海底火山の山頂部にある。そもそも「海底火山は、マントル(注1)で生じたマグマ(注2)が地殻を通して、海底に噴出したものである」というのが我々の常識であった。マントルで生じたマグマ(初生マグマ)は海底火山の調査によって採取され、実態が明らかになってきている(2013年11月7日JAMSTECプレス発表)。しかし、西之島にはこれは当てはまらない。図1は西之島の溶岩(安山岩)をマントル、マントルが溶けた初生玄武岩マグマ、および大陸地殻の組成と比較したものである。西之島の溶岩の組成は驚くほど大陸地殻に似ている。なぜ海洋島弧に安山岩マグマが噴出するのか。

[5] 西之島新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6%E6%96%B0%E5%B3%B6

西之島新島(にしのしましんとう)は、1973年に小笠原諸島で形成された陸地(島)。西之島隣接海域で発生した火山の噴火によって形成された。当時は「新島ブーム」とマスコミに報道され、大きな話題となった。後に西之島と接合し、ひとつの島となった。行政区画は、東京都小笠原村。

なお、このように既存の領海内に自然現象で新たに島が出現した場合は、国際法上自動的に領海の所属国に帰属し、「先占(実効支配)」の必要性はない。西之島新島の場合も自動的に日本の領土として認定されている。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山は海底から計測すると4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年に西之島火山が噴火し、西之島新島が形成された。その後、西之島(旧島)と接合したため、陸地としての実態は西之島と一体である。現在、「西之島新島」および「新島」と特に呼ぶ場合は、この時の噴火により形成された陸地の範囲(旧島を除く範囲)を指すことが多い。

1999年時点での新島部分の面積は0.25km²、最高標高は15.2mである。また、旧島部分を含めた西之島全体の面積は0.29km²、最高標高は25mである。

島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。島には雑草やコケ類が生えている。火山噴火が終息後、漂着した種子からグンバイヒルガオが繁殖、セグロアジサシやカツオドリが飛来するなど動植物も確認されている。周辺は好漁場となっているが、座礁事故も起こっている。

歴史[編集]

1973年(昭和48年) - 4月に変色水が確認された。同年5月30日西之島の東方600mで海底火山の噴火があり、同年9月11日に新島が出現、同年12月21日に「西之島新島」と命名された。

1974年(昭和49年) - 3月には新島と旧島が接続。馬蹄形の形状となる。東海大学の調査隊が上陸。

1975年(昭和50年) - 新属新種のニシノシマホウキガニが発見されたが、その後、島内では絶滅した(他海域で再発見)。

1982年(昭和57年) - このころには湾口が閉じて湾が湖になり、釣鐘型の形状となる。

参考文献[編集]

青木斌・小坂丈予編 『海底火山の謎:西之島踏査記』 東海大学出

[6] 元の西之島、大部分埋まる 噴火、新島確認から1年:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASGCF5RPFGCFULBJ017.html

小笠原諸島の西之島近くの海上で、海底火山の噴火による新島が見つかって間もなく1年。西之島とくっついた後も拡大を続け、元の西之島は西岸中央の一部を残して溶岩で埋まっていた。13日、朝日新聞社機から確認した。

海上保安庁が新島を確認したのは昨年11月20日。東京から南へ約1千キロ離れた小笠原諸島の父島の西約130キロにある西之島近くで、直径約200メートルの島を見つけた。流れ出た溶岩が海底を埋めて島の面積を広げ、12月25日には約500メートル離れた西之島とつながった。

海上保安庁によると、新しくできた島の部分は今年10月16日時点で1・85平方キロ、発見当時の0・01平方キロから185倍になった。元の西之島の部分と合わせた島全体の面積は東京ドームの約40倍にあたる1・89平方キロで、噴火前の8・6倍という。

本社機に同乗した東京大地震研究所の中田節也教授(火山学)は「噴火は数年単位で続き、島の拡大も当面続くだろう」と語った。(北林晃治)

[7] 西之島の噴火から2年 面積12倍に拡大 NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151120/k10010313971000.html

小笠原諸島の西之島で、おととし新たな噴火が確認されてから20日で2年になります。島の面積はこれまでに元の島の12倍に拡大し、今月17日に行った海上保安庁の観測でも爆発的な噴火や溶岩の流出など、依然として活発な噴火活動が続いていることが確認されました。

海上保安庁が今月17日に航空機で上空から観測したところ、島の中央部の火口では爆発的な噴火がくり返し発生している様子が確認されました。 噴火の頻度は1時間に1,2回程度と、これまでよりも少なくなっていましたが、これまでよりも噴石が飛ぶ範囲が広がり、大きな噴石が1キロほど離れた海上まで飛んでいたほか、噴火に伴う空気の振動によって航空機でも揺れを感じたということです。 また、溶岩の流出も引き続き確認され、流れ出す方向が北側から南西側に移っていたということです。 島の大きさは東西が1900メートル、南北が1950メートルで、面積は東京ドームのおよそ56倍の2.64平方キロメートルと、波による浸食の影響でことし9月よりもやや小さくなったものの、元の島のおよそ12倍だったということです。 今回の調査に同行し、西之島の観測を続けている東京工業大学の野上健治教授は、噴火がこれまでより爆発的な噴火になっている理由について、「現段階では確定的なことは分からないが、地下から供給されるマグマの量が減ったことで噴火の間隔が長くなり、内部でガスが溜まったりして、爆発力が増している可能性がある。この傾向が今後も続くのか継続して調査する必要がある」と話しました。そのうえで、「噴火が始まった当初から、活動が長期化するという見通しを持っていたが、ここまで長くなるとは想像していなかった。今後も活動の推移を注視していきたい」と話しています。

小笠原諸島の西之島では、おととし11月に新たな噴火が確認されて以降、2年間にわたって活発な活動が続き、島の大きさは噴火前の元の島のおよそ12倍に拡大しています。 小笠原諸島の父島の西、およそ130キロにある西之島では、おととし11月20日に、およそ40年ぶりに南東の海底で噴火が確認され、新たな陸地が出来ました。海上保安庁の上空からの観測では当初、新たな陸地は北西から南東の長さが200メートル、北東から南西が100メートルほどでしたが、活発な噴火活動により流れ出した溶岩で拡大を続け、噴火の確認から1か月後には、元の島と陸続

[8] 西之島拡大続く 溶岩の流れ複数層で厚み増す NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150821/k10010197781000.html

活発な噴火活動によって島の拡大が続く小笠原諸島の西之島では、流れ出した大量の溶岩が複数の層となって流れ下ることで、陸地の厚みも増していることが、NHKが無人ヘリコプターを使って撮影した映像で初めて確認されました。

西之島には火口周辺警報が発表され、島の中心から4キロ以内には近づけないため、NHKの取材班はことし6月、無人ヘリコプターを使って島のおよそ2,300メートルの低空からハイビジョンの4倍の画質の「4K」カメラで撮影しました。 その結果、島のほぼ中央にある火口からは、噴煙が絶え間なく渦を巻くように立ち上り、最大で3メートルほどの噴石が勢いよく噴き上がっていました。また、山腹から流れ出した黒い溶岩が海に向かって複数の筋状となって流れ下り、海岸で波をかぶって蒸気を上げている様子がはっきりと確認できました。 さらに夜間に撮影した映像では、熱で赤くなった噴石が火口から次々と噴き上がり、斜面を転がる様子や、昼間には黒く見えた溶岩が高温のために暗闇の中でオレンジ色に光り、山腹から川のようになってゆっくりと流れ下る様子が初めて捉えられました。溶岩の流れは途中でいったん見えなくなり、その後、海岸付近で再び姿を現し、高温のまま海に流れ込んいることも確認できました。 映像を分析した東京工業大学の野上健治教授は、溶岩の表面が冷えて固まった上に別の溶岩の流れができて上下二重の構造になっていて、新たな島の陸地の厚みが増すことにつながっていると分析しています。そのうえで野上教授は、「日本近海のプレートが地下深くに沈み込んでいる場所では、大量の溶岩を1年以上にわたり流し続ける噴火は非常に珍しく溶岩の上に乗るように別の溶岩が流れて島全体を覆っている。溶岩の流れ出る場所の標高が高い所に移動しているので、今後、さらに厚みを増していくのではないか」と話しています。

[9] 西之島 面積減少も活発な火山活動続く NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150918/k10010240891000.html

小笠原諸島の西之島について、海上保安庁が16日上空から観測した結果、島の面積は前回の観測に比べて減っていたものの、引き続き溶岩が流れ下るなど、活発な火山活動が続いていることが確認されました。

海上保安庁が16日、航空機で上空から観測したところ、島の中央部の火口からは噴火は確認されなかったものの、斜面の2か所から溶岩が流れ出していて、島の周辺の海域では200メートルから300メートルにわたって流れ込んだ溶岩などによって海水が褐色に変わっている様子が確認されました。 一方、島の大きさは、東西と南北にそれぞれおよそ1950メートルで、面積は東京ドームのおよそ57倍の2.68平方キロと、おととし11月に観測を始めてから初めて前回の調査よりも0.04平方キロ減りました。海上保安庁は波に浸食されて面積が減少したとしたうえで、陸地が厚みを増している可能性があり、拡大がとまったとは考えていないとしています。 調査に同行した東京工業大学の野上健治教授は、「海水が変色している海域が島の周囲の広い範囲で確認されているうえ、依然として溶岩が流れ出し続けていることから、火山活動に大きな変化はなく、活発な状態が続いていると考えられる」と話しています。

[10] 12倍に拡大の西之島 噴火後初の上陸調査 | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161025/k10010743931000.html?utm_int=news_contents_news-main_002

およそ2年間にわたって活発な噴火活動が続いた小笠原諸島の西之島で噴火後、初めてとなる上陸調査が行われ、島では以前から生息していた海鳥や植物などが確認されました。専門家などは、一連の噴火のメカニズムや、今後、島の生態系がどのように変化していくかさらに詳しく調べていくことにしています。

今回、調査を行った島の海鳥の生態に詳しい森林総合研究所の川上和人主任研究員によりますと、溶岩に覆われずに残った元の島の陸地では、噴火前から島に生息していた「アオツラカツオドリ」が、巣を作って卵を温めている様子や「カツオドリ」の巣の痕跡とともに、ことし誕生したと見られる若い鳥も見つかり、噴火のあとも島で海鳥の繁殖活動が続いていると見られることが確認できたということです。 また、火山灰などに覆われて枯れたのではないかと考えられていた「オヒシバ」というイネ科の植物も今回の上陸調査で元の島の陸地に生えていることが確認されたということです。 一方で、流れ出した溶岩などによって新たにできた陸地には、海鳥がとまって羽を休めたり、鳥のふんが付いている様子は確認できたものの、平らな場所はほとんどなく、巣などは確認できなかったということです。 川上主任研究員は「これから新たな陸地に生物が広がっていく際の、スタートとなるデータを取ることができて、非常に貴重な調査となった。今後は調査結果を元に生物の分布状況を調べ、生態系がどう広がっていくかや狭い陸地をどのように住みわけているかなどを明らかにしたい」と話していました。

調査に参加した東京大学地震研究所の前野深助教によりますと、今回の調査は島の西側の、元の島の陸地やその周辺で行われました。元の島の陸地の周辺には波によって砕かれたと見られる溶岩のかけらなどが多数、打ち上げられていて、元の陸地まで50メートルほどにわたって新たな海岸ができていました。 今回の噴火で流れ出した溶岩の厚みは、先端の部分で厚さが4メートルから5メートルほどあり、最も厚いところでは10メートル以上に達しているということです。 溶岩の先端では、海水に触れて急激に冷やされたことでできたと見られる、ガラス質を多く含んだ層が確認され、前野助教は活発に溶岩が流れ出していたことを示す痕跡だとしています。 海岸には500メートル以上離れた島の中央付近の火口から、噴火に伴って飛んできたと見られる直径50センチ

[11] 標高150メートルに到達 小笠原諸島・西之島まだ成長:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASH913F8XH91UJHB006.html

国土地理院は31日、小笠原諸島・西之島を7月28日に無人航空機で空撮した写真を公開した。最高標高は、撮影時の海面から計測して約150メートルに達し、前回撮影した3月1日の約137メートルから13メートルほど高くなっていた。

面積は約2・74平方キロで、前回の約1・1倍。噴出した溶岩が海面上にある部分の体積は、2年前の最初の噴火から通算して約8511万立方メートルで、前回の約1・3倍に成長していた。

今回の撮影結果は国土地理院ウェブサイトの「地理院地図」で公開している。(吉田晋)

[12] 小笠原に島が誕生 直径200メートル、海底火山噴火で:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/TKY201311200623.html

【工藤隆治】20日午後4時20分ごろ、小笠原諸島の西之島の南南東約500メートルの海上に、直径約200メートルの新たな島ができているのを、海上保安庁の航空機が確認した。海底火山の噴火によるもので、活動はしばらく続くとみられる。海底噴火による新島の出現は27年ぶり。海保は、近くを通る船に注意を呼びかけている。

新たな島は東京の南約1千キロ、父島の西約130キロにできた。標高数メートル。

海保の提供映像では、中央付近にある火口から時折、爆発的に黒い噴煙が噴き出して高さ約600メートルに達し、白い湯気がさらに高く上っている。陸地の周囲では、爆発で吹き飛ばされた岩石が海面に落ちる様子も確認できる。

付近では1973年にも噴火で島が現れ、近くの無人島の西之島とつながった。これ以降、海水の変色がたびたび確認されていたという。

[13] 噴火で出現した新島「成長速度が非常に速い」 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞), , http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20131121-OYT1T01040.htm

噴火で出現した新島「成長速度が非常に速い」

海底火山の噴火による新島の出現が確認された東京都小笠原村の西之島近くの海域では、21日も活発な火山活動が続いた。

同日、海上保安庁の航空調査に同行した東京工業大の野上健治教授(地球化学)は、「島の成長速度は非常に速く、継続的な観測が必要だ」と指摘した。

西之島近くの海域では20日午後、同庁の航空機が黒色の噴煙と新しい島を確認。気象庁も同日、今後も噴火が続く可能性があるとして、火口周辺警報を発表した。

野上教授らの21日の調査では、楕円(だえん)形の陸地は長い部分で約400メートルに達しており、標高も20〜30メートルに成長していた。周辺の海域は、火山活動でわき出した温泉の影響でエメラルドグリーンや黄土色に染まっており、野上教授は「変色域の色やサイズから、かなり活発な状態が続いていると考えられる」と述べた。

[14] 幻想諸島航海記/日吉沖ノ場(南日吉海山), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/08/hiyosiokinoba.html

南硫黄島南東海上・1977年1月

1977(昭和52)年1月9日(日)。

前年2月に突如発覚して日本を震撼させ、ついには田中角栄元首相の逮捕にまで至ったロッキード事件が、依然として政財界を揺さぶり続け、また、新聞の社会面では、新宿の「火曜日の放火魔」や、青酸入りコカコーラによる無差別殺人事件が世を騒がせていた頃のことである。

この日午後2時半頃、海上保安庁水路部に、日本航空オペレーション・センターより、「午前11時5分頃、羽田発グアム行日航941便の清水靖司機長が、南硫黄島南方の太平洋上で、新島の誕生が推定される変色海域を見た」という旨の報告が入ってきた。

日航・清水靖司機長の話 問題の海域は海面が明るい黄緑色で、周りの深いブルーの海とはっきり違ってみえた。最初に陣内健次副操縦士がみつけ、私も含め乗員三人が確認した。晴れてはいたが、薄くもやがかかった天候で、高度も一万メートルあり、細かいことはわからなかった。この海域では海底火山の活動が活発ときいていたので、もしやと思い、日航のオペレーションを通じて海上保安庁に連絡した。 (『朝日新聞』1977年1月10日附朝刊「新島?変色水域を発見」)

この変色水域は直径約10kmに達していたという。清水機長はその位置を「北緯23度54.06分・東経142度18.07分」と報告している。この報告を信じるならば、問題の海域では水面のごく近くで海底火山の活動が起きており、すでに新島を形成している可能性もある、ということになる。だが、海上保安庁水路部では当初、この報告に少々疑問を抱いていた。というのも、該当位置は伊豆諸島・火山(硫黄)列島からマリアナ諸島へと続く火山帯からは外れており、その上、2000m以上の深海であって、もし海底火山が存在していたとしても、その活動が水面に現れることはまずありえないからである。

しかし、翌10日午前3時に海上保安庁羽田航空基地を飛び立った観測機YS-11A・LA701は、午前6時40分に現地に到着し、変色水域が確かに存在していることを認めた。ただし、その位置は北緯23度30.4分、東経141度54.3分で、最初の通報位置からは南西に約60kmもずれていた。火山列島の南端である南硫黄島からさらに南南東に約90km、東京からは約1400kmの地点である。観測の結果、この海底火山は、新島形成まではいかないも

[15] 小笠原新島:発見時より2.5倍 甲子園と同じ面積に- 毎日新聞, , http://mainichi.jp/select/news/20131203k0000m040171000c.html

海上保安庁は2日、小笠原諸島・西之島(東京都)近くの火山噴火でできた「新島」について、溶岩が海を埋め立てて東側に陸地の面積が広がり、発見当初より約2.5倍の大きさになっていると明らかにした。活発な火山活動が続く見通しで、さらに拡大する可能性が高いという。

海保によると、1日午後に航空機で真上から撮影して面積を測定。甲子園球場の敷地とほぼ同じ約4万平方メートルで、発見翌日の11月21日の写真と比較すると約2.5倍になっていた。

山腹の火口から、東側の海に向かって大量の溶岩が流れ出たとみられる。(共同)

[16] 中ノ鳥島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

中ノ鳥島 (なかのとりしま、 英 : Ganges Island )は、 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 座標 : 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 に存在したとされる 幻の島 。別名「 ガンジス島 」。また、近傍には「ガンジス礁」もあったとされる。

自然科学 の観点から見れば実在したとは考えられないが、 日本 の 領土 として正式に認定されていた時期がある点で、世界各地の「幻の島」「 伝説の島 」とは一線を画する。

海図 等では「中ノ鳥島」の表記が用いられたが、日本政府の発する 命令 ( 政令 ・ 省令 等)では「 中鳥島 」の表記が多く用いられた( 日本国憲法 下での 官報 掲載例は前者2件、後者27件)。

概歴 [ 編集 ]

1907年 ( 明治 40年)8月、 東京市 小石川区 諏訪町(現在の 東京都 文京区 後楽 )の 山田禎三郎 が、 東京府 小笠原島 から560 哩 の位置に 島嶼 を発見、上陸して 探検 、 測量 まで試みた。

東京府知事 阿部浩 から 内務大臣 原敬 に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、 島 は外周1 里 25 町 (約6.67 km )、面積64万3700 坪 (約2.13 km² )、 サンゴ礁 と思われる 植生 もあった。また、島には 鳥の糞 が積もってできる 燐鉱石 で覆われており、これは当時、 火薬 原料や 肥料 として重要視されるものであった。

山田はこの島を開発するため日本による 領有 を訴え、翌 1908年 (明治41年)7月22日に 閣議決定 により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された [1] 。山田が発見した島は、海図の「ガンジスアイランド」に相当すると届けられたが、当時の 海軍省 水路部 が記した『日本水路誌』には 北緯30度47分 東経154度15分  /  北緯30.783度 東経154.250度 ) に「ガンジス島」があるとされ、「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」と所在が未確定ながら「帝国ノ版図ニ属スヘキハ論ナキ」と日本領に組み込むのは当然とされた。

しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見すること

[17] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (3), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history3.html

アメリカ占領時代の沖ノ鳥島

日本が戦争に敗れた後、東京都小笠原支庁に属していた島々――広義の小笠原諸島、すなわち小笠原諸島(小笠原群島・西之島・火山列島)および南鳥島・中ノ鳥島・沖ノ鳥島――は、1946(昭和21)年1月29日の連合国最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の覚書(SCAPIN-677「若干の外廓地域を政治上・行政上日本から分離すること」)により、日本の施政権から切り離され、 GHQ/SCAP の直接統治下に置かれることとなった。1952(昭和27)年4月28日に対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本が独立した後も、この島々は引き続きアメリカの占領下に置かれた。なお、東京都小笠原支庁はこのときいったん廃止されている。

なお、1955(昭和30)年、日本は米軍より南方定点観測のために沖ノ鳥島観測所の復活建設を勧告されたが、これは費用の関係で実現しなかったという (『沖ノ鳥島災害復旧工事誌』、須田皖次「沖の鳥島夢物語」) 。かといって、アメリカが独自にこの珊瑚礁をどうこうした、ということも特になかったようである。費用の点もさることながら、敗戦により(少なくともタテマエ上は)軍備を放棄し、しかも南洋群島を失った(1947年より国際連合信託統治領としてアメリカが統治)日本にとって、たとえ気象観測に極めて役に立つとはいっても、戦前の計画をそのまま続けるメリットは実のところほとんどなくなってしまった、と考えるべきではないだろうか。須田は、その回想録を

台風監視の立場からいうと南方定点観測の外に、更にこの観測所が出来たらそれこそ鬼に金棒となりましょう。或はあのボロ船の観測船上で危険におびえながら台風観測をやるよりも、むしろ沖の鳥島の観測所を復活する方が余程賢策かもしれません。この夢が実現すれば気象観測以外に灯台、無線電信の業務が始まる外、安全な漁港も出来ましよう。更に熱帯海産生物の実験場が出来、世界最大の天然水族館も造れましよう。日本からこの島へ観光船が出るようになつたら、それこそ無人、無樹木のアトール 〔環礁〕 も世界有数のユトピアーになりましよう。この夢を五島慶太さん 〔1882-1959。東急グループの実質的な創立者〕 か堤康次郎さん 〔1889-1964。西武グループの実質的な創立者。箱根・伊豆の観光開発などを巡る二人のライヴァル関係は有

[18] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

[19] 校歌が8番まである小学校 「死」「はりつけ」歌詞も:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASK4B3J2ZK4BTIPE009.html

校歌が8番まである学校がある。農村に囲まれた福岡県うきは市の市立江南(えなみ)小学校。歌詞は、江戸時代の庄屋をたたえる内容で、明治後期に作られ、「死をもて誓いたる」「はりつけの刑罰」といった校歌らしからぬ文言もあるが、先人の遺訓として脈々と歌い継がれている。

校歌の歌詞は体育館のステージに向かって右側に1番から4番まで、左側に5番から8番までが分けて掲示されている。6日の始業式で、児童は右から左へ目線を動かしながら斉唱した。七五調の歌詞がリズムよく続き、2分20秒で歌い終わった。

元々は浮羽郡内唱歌として作られ、24番まである。そのうちの一部が校歌に採用された。前身の小学校から約140年の歴史があるが、いつ校歌になったのかは定かではない。鉄道唱歌の作詞者として名をはせた国文学者の大和田建樹(たけき)(1857~1910)が明治40年代に作詞。作曲は童謡「きんたろう」で知られる田村虎蔵(1873~1943)が手がけた。

歌詞には「五人の庄屋」が登場する。栗林次兵衛(夏梅村)▽本松平右衛門(清宗村)▽猪山作之丞(菅村)▽山下助左衛門(高田村)▽重富平左衛門(今竹村)で、江戸初期の寛文年間、水不足で苦しむ農民を見かね、筑後川からの導水を藩に願い出て、実現させた郷土の偉人だ。血判状を添え、失敗した場合は「はりつけの刑」も覚悟したと言い伝えられている。

五つの村は江南小の校区にあった。学校近くの長野水神社は5人の庄屋をまつっており、8日にあった大祭でも満開の桜のそばで4年生18人が校歌を高らかに歌った。金子将大(しょうた)君は「五庄屋を尊敬しています」。麻生絵理さんも「校歌は好き。5人はすばらしい人たちだと思う」と話した。

歌詞に学校名は出てこない。「死」や「刑罰」といった文言もあるが、江南小の松田清孝校長は「クレームは1回も聞いたことがない。学習を通じて意味を理解していく」と語る。校内に「五庄屋資料館」があり、児童が作った紙芝居や壁新聞などを展示する。田植えを控えた5月2日に学校の体育館である「五庄屋追遠会」も毎年の恒例行事で、献花をしたり、校歌を歌ったりしている。

元になった唱歌は歌われなくなったが、校歌は愛着を持たれて児童たちの心に宿る。(貞松慎二郎)

■福岡県うきは市立江南小学校の校歌

一 寛文初年の頃とかや

いでこの民を救わんと

慨然(がいぜん)死をもて誓いたる

西之島新島

西之島新島

履歴

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