蛸薬師通

蛸薬師通

[1] 蛸薬師通 (たこやくしどおり)

Webページ

[2] 蛸薬師通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%B8%E8%96%AC%E5%B8%AB%E9%80%9A

蛸薬師通(たこやくしどおり)は京都市内の東西の通りの一つ。東は木屋町通から西は佐井通の西の西院小学校付近まで。途中壬生川通と御前通の間では京都市営バス壬生車庫やJR山陰本線など数箇所で分断されている。 平安京の四条坊門小路にあたる。「蛸薬師」の名は新京極通にある永福寺の本尊薬師如来の俗称に由来する。河原町通と新京極通の間は少し南に寄り、これらの通りから続く繁華街になっている。 河原町通から烏丸通までが路上喫煙等禁止区域である。

[3] 西土居通りの謎(2) タコヤクシよ、お前もかっ! | ジオどす 京都通り名住所検索システム, , http://geodosu.com/blog/%E8%A5%BF%E5%9C%9F%E5%B1%85%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%AC%8E%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%89%E3%80%80%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%88%E3%80%81%E3%81%8A%E5%89%8D%E3%82%82%E3%81%8B%E3%81%A3%EF%BC%81

ジオどす開発担当の上田です。

前回のブログで「土居の内通り」という通りが、住人の皆様が認識している道路と、地図に掲載されている道路が異なるということを報告した。これはその続きです。

地図の「間違い」が全ての地図会社に共通していたので、きっと共通の情報源があるはずだと思い、某地図会社に昔勤務しておられた方に話しを伺う。地図会社では(その時代では)京都市が発行している1/2500の都市計画地図や、昔の文献、当然他社の地図なども参考にして、いろいろな情報ができるだけ「矛盾のないように」通り名を記していったそうだ。これはどの地図会社でも同じだろうということで、結果的に同じになるのはある程度予想できるとのこと。

気になったのは、地図会社の地図作成作業に、住民の方へのヒアリング工程がないこと。京都なら住民が一番詳しそうなのに、なぜ聞かないのだろう。

次に、地図会社が4社とも同じ「間違い」になるには、前述の話から、京都市の都市計画図が怪しい。早速、京都市役所の「道路明示課」に行く。この課は、市内の道路について「認定」をする課で、各道路には市が管理するための管理番号と名前が付いている。

認定道路とは,国又は地方自治体が「道路法」に基づいて認定及び維持管理をしている道路のことです。(京都市役所道路明示課のHP「認定道路とは」より)

ここでのポイントは、道路に付けられた名前は、あくまでも市の管理上の名前であって、実際に使われている道路名と一致させる義務も責任も無いこと。

で、実際に「土居の内通り」を調べてみると、地図の通りであった。つまり住民の認識とは違っていた。地図会社各社は、これを情報源にしたのでしょう。

職員の方に話を伺ったところ、認定道路の名称には、市内中心部にはなるべく実際の通り名をつけるようにするだろうが、辺縁部では分からないとのこと。一旦、通り名をつけて認定道路であることを「申請」し、市議会が「承認」すれば、それが認定道路の「正式な名前」となる。これが各地図会社の地図に利用され、不動産会社などにも利用されることとなる。

職員の方に再確認したが、このプロセス中には、住人へのヒアリングが一切行われていない。京都市もかっ!

辺縁部の住宅地では、例えば××町という郵便住所の町があれば、その町の端の東西南北を××東通り、××西通り、××南通り、××北通り、とし、中心部を通る道を×

[4] 後院通 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%A2%E9%80%9A

後院通の終端にある四条大宮交差点を北西側から見た様子。大宮通の北側は細い生活道路であるのに対し、後院通は幹線道路たる規模があり、右手に見える大宮通の南側と一体的な交通を成している。

概要 [ 編集 ]

千本通 と 大宮通 を結ぶ通りである。明治時代に 京都市三大事業 の一環として市電敷設と同時に街路建設を行った際に、千本通を拡張して市電を通そうとしたが、 西高瀬川 の水運を利用して発展した木材業者が「通が広くなると同業者が分断される」と反対したために、南に延ばすことが出来ずに千本三条交差点から、四条大宮交差点に向かって斜めに道路を建設し市電の線路を敷いた。

また、この通りの沿線に 京都市電 の壬生車庫が設置されていたことから、地元では「車庫前通」と呼ばれていたこともある。

沿道の主な施設 [ 編集 ]

千本三条交差点

京都中央信用金庫 三条支店

京都信用金庫 朱雀支店

京都市立朱雀第一小学校

京都市立洛中小学校

京都市営バス 壬生操車場

京都府警察 中京警察署 - 京都市内の警察署再編にともない、 京都市交通局 壬生庁舎の跡地に設置された [2] 。

UR都市機構 壬生坊第2団地

四条大宮交差点

阪急 京都線 大宮駅

大宮阪急ビル

プラネシア阪急大宮ビル(mibuna京都大宮)

京福 嵐山本線 (嵐電) 四条大宮駅

餃子の王将 四条大宮店

餃子の王将の1号店。

路線情報 [ 編集 ]

交差する主な道路 [ 編集 ]

坊城通

六角通

蛸薬師通

壬生川通

錦小路通

脚注 [ 編集 ]

^ 京都市内の通りの名称は「通」となっていて「り」を送らない。例外として道路標識では「通り」として送る表記を採用しているが、印刷資料で送るものは極めて珍しい。 京都市内の通り#表記 参照

^ 中京警察署が業務開始! 五条警察署が、「下京警察署」に生まれ変わります - 京都府警察(2012年4月26日閲覧)

関連項目 [ 編集 ]

京都市内の通り

京都市電千本線

[5] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<竹田街道(東洞院通車道)・後編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-4036.html

街道見て歩きも、

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回も、<<竹田街道・後編>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていて、伏見港からは、水路(淀川)で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

と思っていたら、前回の終わりにも書きましたが、竹田街道の基点・塩小路東洞院は南の拠点で、北は丸太町通・御所であることが分かりました。

そこで今回は京都市内を北に、東洞院通を歩きました。

前回の北の基点です。今回はここから歩きます。

東洞院通の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」(仙洞御所)と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われます。天正の地割(1590年)後、竹田街道へ連なる幹線道路となり、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行にしました。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まったようです。塩小路通りより北を望む。

すぐ「七条通り」が見えてきます

「下数珠屋通り」手前の町並み

同通りの左手・西には東本願寺があり、通りの名の通りお寺に関連したお店がずらり。

反対の東はご存知「枳穀邸・渉成園」・東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんでこう呼ばれました。

嘉永18年、この地を徳川家光から寄進を受けた宣如上人が、石川丈山らと庭園を築き別邸としました。

源氏物語主人公・光源氏のモデルとされた「源融(みなもとのとおる)」の河原院の跡に近くに、「印月池」を中心に、平安朝の面影を残した、楼門「傍花閣」、書院「閬風亭」「滴翠軒」「臨池亭」、茶席「漱枕居」「宿遠亭」、持仏堂「園林堂」、橋廊「回棹廊」を配した庭園となっています。

地蔵堂ではなく珍しい「大日如来石仏」が祀られていました。民家の奥には古い蔵がのぞいていました。

本願寺詣での宿屋さんでしょうか風情のある旅館「井筒安」さん。創業天保十年(1839年)から代々受け継がれてきた数奇屋造りの京町屋です。

正面通りの東に「枳穀邸」が見えます。西は「東本願寺」さ

[6] 京都の城02 /城跡巡り備忘録 京都府, , http://www.geocities.jp/buntoyou/f10/f-kyoto002.html

�A京都市中京区三坊大宮町

�B

国道1号線五条堀川の信号から堀川通りを北に1.7kmの堀川御池の信号を左折し(中京区役所の角)御池通りを200m進んだ最初の信号を左折します。角に二条陣屋の案内板があります。100m先の右手です。陣屋前の道は狭いです。予約をしてなかったので中には入れませんでしたが、江戸初期の商家が残るという感じです。どちらかというと草津宿本陣や二川宿本陣という感じですかね。

�C平城

�F遺構等:現存建物・説明板

�G江戸期/小川氏

�H満足度:凸

豊臣秀吉の家臣で伊予今治で七万石の大名であった小川土佐守祐忠は関が原の戦いでは西軍に属したため出家し、その長男の千橘が萬屋平右衛門と名乗ってこの地で米穀商・両替商・木薬屋を営みました。この建物は寛永十年(1670年)に住居として建てられたものです。江戸期、二条城に伺候する中小大名の陣屋として利用され、また、京都奉行所の公事宿として利用されたため、隠し階段や武者隠しなどの身辺警備の施設が施されています。 (現地案内板より)

[7] 本初子午線をゆくPart I 京都編, , http://stelo.sakura.ne.jp/135e/hizakuri200203.htm

塩屋天体観測所 | 東経135度子午線を訪ねて | 子午線道中膝栗毛

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本初子午線をゆく Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>

京都改暦所旧跡 (中京区西ノ京西月光町)

ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお

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[11] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933388550

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