街道見て歩きも、
奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・
東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・
伊勢街道・・・
郡山街道・・・
と、見てきました。
今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。
という訳で、今回も、<<竹田街道・後編>>を歩いてみました。
竹田街道は江戸時代、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていて、伏見港からは、水路(淀川)で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。
と思っていたら、前回の終わりにも書きましたが、竹田街道の基点・塩小路東洞院は南の拠点で、北は丸太町通・御所であることが分かりました。
そこで今回は京都市内を北に、東洞院通を歩きました。
前回の北の基点です。今回はここから歩きます。
東洞院通の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」(仙洞御所)と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われます。天正の地割(1590年)後、竹田街道へ連なる幹線道路となり、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行にしました。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まったようです。塩小路通りより北を望む。
すぐ「七条通り」が見えてきます
「下数珠屋通り」手前の町並み
同通りの左手・西には東本願寺があり、通りの名の通りお寺に関連したお店がずらり。
反対の東はご存知「枳穀邸・渉成園」・東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんでこう呼ばれました。
嘉永18年、この地を徳川家光から寄進を受けた宣如上人が、石川丈山らと庭園を築き別邸としました。
源氏物語主人公・光源氏のモデルとされた「源融(みなもとのとおる)」の河原院の跡に近くに、「印月池」を中心に、平安朝の面影を残した、楼門「傍花閣」、書院「閬風亭」「滴翠軒」「臨池亭」、茶席「漱枕居」「宿遠亭」、持仏堂「園林堂」、橋廊「回棹廊」を配した庭園となっています。
地蔵堂ではなく珍しい「大日如来石仏」が祀られていました。民家の奥には古い蔵がのぞいていました。
本願寺詣での宿屋さんでしょうか風情のある旅館「井筒安」さん。創業天保十年(1839年)から代々受け継がれてきた数奇屋造りの京町屋です。
正面通りの東に「枳穀邸」が見えます。西は「東本願寺」さ