木津川運河

木津川運河

[1] 木津川運河 (きづがわうんが)

34.6326007246077 135.460331439972

Webページ

[2] 木津川運河 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%81%8B%E6%B2%B3

木津川運河(きづがわうんが)は大阪府大阪市大正区南部に位置し、木津川と大正内港を結ぶ運河。長さ1832メートル、幅員80メートル、水深O・P(大阪湾中等潮位)1.8メートル。

[3] 木津川 (大阪府) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D_%28%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%29

木津川(きづがわ)は、大阪府大阪市南西部を流れる淀川水系の下流における分流で一級河川。流域北部は住宅地、南部は倉庫・造船所などの工業地帯を流れる。

干潮水深は昭和5年(1930年)に10.5メートル、昭和15年(1940年)9.4メートル、昭和27年(1952年)3.2メートルと次第に浅くなっている。平均幅員は昭和27年時の調査で169メートル。

地理[編集]

大阪府大阪市西区中北部で淀川分流の土佐堀川から分かれ、西区中央部を南へ縦断。大阪ドーム近くの大正橋で西道頓堀川が東から合流、西へは岩崎運河から尻無川への流れがある。本流は大正区と浪速区、西成区との境界を成しながらなおも南下し、千本松大橋付近から徐々に南西流、そして西流へ転じる。下流では大正区と住之江区の境界となり、木津川運河を分けて大阪港南部(大阪南港東部)へ注ぐ。

歴史[編集]

元禄12年(1699年)に古くから掘削され、豊臣家の軍船停泊所の建設や中村勘助の木津川浚渫、江戸幕府の船番所、河村瑞賢の難波島中央部切開、泉尾新田への用水導入、舟囲い場、天満屋敷など多くの歴史背景がある。これらについては年表で後述する。

明治20年ごろまで木津川は船の出入りが多く、賑わっていたが、その後、より水運の良い安治川に主導権を奪われた。具体的には、大正元年(1912年)の川筋の停泊数で、安治川が2,221隻で最多、木津川1,336隻、尻無川620隻となっている[1]。第一次世界大戦時の造船ブームや付近の工場の進出で木津川は再び活気を取り戻した。現在も運河としての役割を担っている。

天正4年(1576年) - 毛利水軍が織田信長軍の兵船を木津川口で破り、石山本願寺内に兵糧を運ぶ(第一次木津川口の戦い)。

天正6年(1578年) - 織田方の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍の安宅船が大坂を海上封鎖、毛利水軍を木津川沖で撃破(第二次木津川口の戦い)。

慶長15年(1610年) - 中村勘助が木津川尻の姫島に豊臣家の軍船係船所を建設し、堤防を築き田畑を開発。豊臣家より「勘助島」(現在の大正区三軒家)の名が与えられる。

寛永7年(1630年) - 中村勘助による木津川の浚渫。

元禄12年(1699年) - 河村瑞賢が難波島を開削工事。木津川の水流を改良。

宝永5年(1708年) - 川口の浚渫実施。遠見番所を設置する。

享保15年(1730年)

[4] 橋の散歩径 木津川運河, , http://www.pintruss.com/bridge/tosen/unga.html

木津川運河

船町渡

…大阪市バス鶴町一丁目か西船町が最寄り。大正区内の小さな渡船。

大きな工場の裏手から出る様はちょっとユーモラス。

6:15-21:25 日祝6:30-21:25 15分毎

ふなづる、金剛丸

'86

'97 金剛丸

'97 ふなづる(93/9竣工)

待合室

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933386194

メモ