本城橋

本城橋

[1] 本城橋, 那珂トンネル

Webページ

[2] 水戸市ホームページ, , http://cmsw3.city.mito.lg.jp/view.rbz?nd=2530&of=1&ik=1&pnp=1666&pnp=2530&cd=5814

旧水戸城本丸と二の丸の間を走って常陸太田・郡山へと向かう水郡線。現在、水戸三高側と水戸一高の間の水郡線を渡るには、平成14年に新しくなった本城橋を利用していますが、ここが跨線橋となったのは今から80年前の昭和4年のことでした。 この年の11月、陸軍において最大の年中行事である「陸軍特別大演習」が茨城県で行われることになりました。14日から17日までの日程で行われる大演習には、日本駐在の外国武官らも観戦に訪れます。そして、大演習の総監として昭和天皇が来水。演習の大本営、天皇の行在所(あんざいしょ)とするべく、県庁(現・三の丸庁舎)の新築工事も始まりました。水戸駅前には凱旋門も建ち、市民の歓迎ムードはいやがうえにも盛り上がります。 天皇は15日に新治郡志筑村(現・かすみがうら市)、16日に水戸市郊外、17日には久慈郡久米村(現・常陸太田市)において全軍を統監。引続き、地方行幸が行われます。天皇の移動手段は自動車、列車、乗馬などで、太田方面へは水郡線(当時は水戸・太田間の太田線)を利用することになりました。この時、土手橋だった本城橋下のトンネルは、ローカル線の小さな汽車が通れるほどのもの。大きなお召し列車を通行させるため、トンネルを壊して橋を架けることになったのです。新たに架けられた本城橋は、北海道官設鉄道で使用したイギリス製のトラス橋梁を改造して転用したものでした。 土手橋を崩し那珂川に向かってすっきりと開かれた堀割を走り抜けるお召し列車の汽笛、それは、ひたひたと迫りくる戦争の時代、怒濤(どとう)の昭和史の始まりを告げているかのようでした。 (市立博物館学芸員 玉川里子) 写真:水郡線のトンネルを壊して建造中の本城橋 「水戸百年」から ※この記事は、「広報みと」平成21年6月1日号に掲載したものです。

[3] 本城橋今昔, , http://homepage2.nifty.com/s45-mitoichikou/page012.html

左から長谷川 良重(H12年卒)、

長谷川 久良太(S15年卒)、

長谷川 良亮(S45年卒)

の各氏

[4] 水戸城 本城橋, , http://shiro.travel.coocan.jp/02kanto/mito/honjobashi/viewer.htm

水戸城 本城橋と堀、橋詰門跡

・・橋正面。

・・橋から南を見る。中央の崖の上に本丸南西の二階櫓があった。その下の橋は国道51号。堀底には水郡線。

・・国道51号の橋から北の本城橋を見る。右が本丸、左が二の丸。堀の規模がよくわかる。

・・橋を渡りきると水戸一高校門。ここにあった橋詰門(薬医門)が奥に移築されているのが見える。

・・本丸北西二階櫓跡から本城橋を見る。下は断崖絶壁。橋の向こうは二の丸跡の水戸三高体育館。

本丸入口の橋は、往時は土橋だった。明治時代、堀底に水郡線(初めは水戸・太田間の太田線)を通すときには土橋の下にトンネルを掘った。

しかし昭和4年11月に陸軍最大の行事「陸軍特別大演習」が茨城県で行われるにあたり、昭和天皇が来水。大本営・行在所として県庁も新築された(現・三の丸庁舎)。天皇は15日に新治郡志筑村(現かすみがうら市)、16日に水戸郊外、17日に久慈郡久米村(現常陸太田市)で全軍を統監し、引き続き地方行幸を行う。この時、水戸から太田への移動は太田線を利用することとなったが、大きなお召し列車を通すにはトンネルが小さすぎた。そこで、トンネルを土橋ごと壊し、北海道官設鉄道で使用していたイギリス製のトラス架橋を改造転用して橋を架けることとなった。これが長年親しまれてきた「本城橋」である。しかし老朽化がはなはだしく、平成14年に新たな橋が架けられた。

[5] 橋の散歩径 本城橋, , http://www.pintruss.com/bridge/tonegawa/honjyo.htm

本城橋(撤去)

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水郡線が水戸を出てすぐのところに架かる跨線橋。でも、実際は水戸一高の通学橋。

しかしながら、この橋の経歴はすごい。もともとは北海道の旭川付近に架けられたトラスなのですが、

もともとは下路プラットトラス・・・。それを上路に改造して、さらに、もともと5パネル分だったのを、

端部を新設して完全な5パネル分に改造するという・・・、元々の橋の写真を知っているだけに、

よくここまで改造したなあ・・・と。なお、元々の架橋位置は下記のどちらか。

1898年(明治31年)架設 1928年(昭和3年)撤去 宗谷線 第三石狩川橋梁(2連)

1899年(明治32年)架設 1926年(大正15年)撤去 富良野線 忠別川橋梁(1連)

ということで、おそらくは第三石狩川から持ってきたものですかねえ。

茨城県水戸市

1929年(昭和4年)竣工 エッジモーアブリッジワークス製

橋長 37.7m 橋幅 5.5m

上路平行弦プラットトラス(ピントラス) 30.5m 1連

再用トラス 錬鉄製

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右側の廃線跡は那珂湊貨物線跡らしい・・・。

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履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933385088

メモ