この城についての詳細は不明である。『大系』では鶴川の右岸を基軸に配置された砦群の北限をなし、仲間川左岸の道の守りを受け持ち、
同時に鶴川上流に対する防備も兼ねていたのであろうと推定している。
戦国期、相模国境である上野原から大月へ向かうルートの一つである仲間川沿いの道に対する守りであったと思われる。
【左】大倉砦 南西側より 鶴川対岸から見たところで、ここからだときれいな円錐形に見えるが、反対方向に尾根が続いている。西側下を北から南へ
鶴川が流れ、南側下は西から東へ仲間川が流れており、鶴川と合流する。
【左上】三の郭より二の郭方面 尾根先端部に主郭があり、背後のやせ尾根に二の郭、三の郭が続く。郭間に切岸と土塁が確認できるが、
あまり明確な遺構は無い。
三の郭背後には堀切があり城域外へ下っていく。そして南の大倉集落と北の登下
(とっけ)集落からの道が尾根上で合流する。「要害山」への案内板は立っている。
【右上】主郭 「要害山頂 536M」の案内板が立っている。南辺に土塁が確認でき、虎口らしき遺構も僅かに確認できる。北側はトッケ沢の谷でその先も山並みが続いている。
【左上】主郭より南方面 四方津御前山の烽火台が見える。
写真でははずれてしまったが左の尾根上には牧野砦がある。
【右上】南西方面 城域背後の尾根からの眺め。下の平らな所は中央道の談合坂(下り)SA。
南東方向には上野原城も見え、南側に関しては周囲一帯を見通せる。
左上写真の右端、木の枝に隠れてしまっている所、そして右上の写真でSAの左側方向には現在は消滅してしまったが、
長峰砦が街道を押さえていた。
〜感想〜
この付近は東西に川が流れており、それにしたがって深い谷が形成されている地形となっている。最終的に東端の上野原で桂川→相模川
と合流していく。その上野原から西へ甲斐国内へ進むルートがその深い谷に沿って分かれているため、烽火台、砦がそれぞれに対応して、
設置されたと思われる。
大倉砦の遺構は尾根上を削平したもので、堀切、土塁の規模はそれほど大きくはないが、主郭から三の郭までの長さは約150mはあり、
全体としては大きな城域を持っている。