北上線

北上線

[1] 北上線 (きたかみせん) , 西横黒軽便線, 東横黒軽便線, 横黒線 (おうこくせん)

Webページ

[2] 北上線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%8A%E7%B7%9A

北上線(きたかみせん)は、岩手県北上市にある北上駅と秋田県横手市にある横手駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

[3] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main7.html

山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、第二指令へ移行。

和賀軽便鉄道の跡を追跡開始。

和賀軽便鉄道への挑戦

我々は、平和街道跡をほぼ計画通り踏破し、和賀仙人駅前に停めていたパタ氏の愛車へと戻った。

そして、心地の良い疲れを感じながら、次の目標である、和賀軽便鉄道跡の踏破を成すべく、行動を開始した。

まずは、平和街道の入り口に停めていたくじ氏の車を、湯田ダムサイト上に移動した。

この湯田ダムサイトは、軽便鉄道の踏破を完全に成功した場合の脱出点となる見込みの場所だ。

それから、パタ氏の車に全員乗って、後半戦のスタート地点である仙人鐵工所跡へと移動した。

ここは、かつては和賀鉱山群の鉱石を大量に集積精錬した大工業地帯で、いまも北上市の衛星工業地区として息を繋いでいる。

ここには軽便鉄道時代の仙人駅が置かれていたと言うが、更地化され痕跡はない。

その山際を、現在のJR北上線がトンネルで繋いでいる。

現在地は、右の図中の「スタート地点」で示した場所である。

この後の予定を説明しよう。

我々の計画では、完全に軌道跡に追従して進み、湯田ダムによって行く手を阻まれるまでの踏破を最終目標とする。

前半は、旧北上線の廃線跡と平行する藪道が想定される。

また、中盤以降は、この踏破の最難所と思われる、大断崖地帯だ。

そして、大荒沢隧道(仮名)を経て、終盤の山岳地帯へと入る。

その距離、約2km。

この間、和賀川右岸には一切の並走路が無く、迂回路、エスケープルートもない。

しいて言えば、断崖を降りて和賀川を渡渉することで、国道への脱出が可能かも知れないが、それはもはやエスケープと言うよりも、危険な賭けとなるだろう。

途中で挫折した場合は、基本的には延々と戻ることになると考えて良い。

各車両の移動後、昼食を野外で摂り、計画を再度全員で打ち合わせ。

探険開始時刻は11時半を回っていた。

この軽便鉄道踏破こそが、今回の最大の目標であった。

平和街道など、当初オマケのつもりだった。

偵察時にくじ氏にひどく流血させ、未だその全容明かされぬ和賀軽便鉄道跡。

最強の部隊で最良の結果を残すため、単独踏破の栄光を放りなげ、私は仲間に助力を仰いだのだ。

わたしとて、なにもせずこの道を困難と決めつけていたわけではない。

今年1月の隧道レポで紹介して

[5] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/oukoku/main5.html

湖底に沈んだ横黒線の痕跡は、渇水期にのみ、その一部を水上に出現させる。

水没によって廃止された大荒沢駅付近から湖に下り立った私は、滑落の危険におびえつつも、道なき湖畔を西へと進んだ。

そして、遂に目にした廃線跡。

水中から地上へと緩やかなスロープを描くロックシェードである。

そして、いよいよ今回は、お目当ての水没隧道である。

小繋橋梁跡

興奮冷めやらぬまま、再び西へと湖畔を歩き始める。

辛うじて路盤は水中であり、水上からはその位置は特定できない。

しかし、横黒線竣工当時の資料によれば、この先には小繋橋梁が設けられていたはずだ。

小繋沢の両岸に設けられた高い築堤と、その突端同士を結ぶ小さな橋梁のうち、築堤と橋台については現存していると聞くが、生憎水没しておりまったく見えない。

橋も築堤も見当たらないまま、小繋沢を深く迂回しつつ、ここを渡る。

橋などは一切ないが、幸いにして水量は少なく、容易に渡ることができた。

前方の森の奥が、丁度来るときに通りかかった峠山のスキー場跡のあたりであるが、切り立った斜面には鬱蒼と木々が茂り、僅か100mほどの距離にある筈の車道は、全く見えない。

むやみに立ち入れば滑落の惧れが高いように思われ、帰り道としての使用は断念せざるを得ないようだ。

どこかしら、楽に来た道を戻れるショートカットを探しながら進んでいるのだが、都合の良い場所は全く見当たらない。

思っていたよりも、湖畔の地形が峻険であるせいだ。

[11] 大荒沢信号場 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%92%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E5%A0%B4

大荒沢信号場(おおあらさわしんごうじょう)は、かつて岩手県和賀郡西和賀町にあった日本国有鉄道(国鉄)北上線の信号場である。信号場となる前は駅であった。

和賀仙人駅とゆだ錦秋湖駅の中間点近くに位置した。

概要[編集]

大荒沢信号場は、1924年(大正13年)10月に東横黒線(現北上線の東側)が西横黒線(同じく西側)との連結を目指して西進するなかで、難所であった仙人隧道の貫通にともなって隧道西側まで延伸した際に、暫定的な終着駅、大荒沢駅として開業した。すぐ後の同年11月には大荒沢から陸中川尻駅までの最後の区間が開通し、横黒線は東西が連結して全通、大荒沢は中間駅となる。

その後、湯田ダム(錦秋湖)建設の為に大荒沢駅を含む約15kmの区間がダム湖に沈むこととなり、1962年(昭和37年)に現在線である新線へと付け替えが行われた。その際、大荒沢駅は駅としては廃止され、信号場へと格下げとなった。その後、1970年(昭和45年)には、信号場としても廃止され、現在に至る。

ルート変更前、つまりダム湖に沈む前には駅周辺に大荒沢の集落や大荒沢ダムがあったが、現在は周辺には秋田自動車道錦秋湖SAを除くと大荒沢・小荒沢という沢があるくらいである。

廃止跡[編集]

現在、現在線上の信号場跡地はホームなどの遺構がわずかに現存している。

旧線上の駅跡地は、基本的にはダム湖の渇水期にも姿を現すことなく湖底に沈んだままであるが、現在もホームおよび軌道敷の跡が残存していることが確認されている(外部リンク参照)。

歴史[編集]

1924年(大正13年)10月25日 - 国有鉄道の大荒沢駅として、東横黒線 和賀仙人〜大荒沢間開通時に開業。一般駅であった。

1924年(大正13年)11月15日 - 路線が陸中川尻駅までが延伸開業し、横黒線が全通。

1962年(昭和37年)12月1日 - 横黒線ルート変更(新線付替え)に伴い廃止。大荒沢信号場として格下げされ新線上へ移転。

1966年(昭和41年)10月20日 - 横黒線が北上線に改称。

1970年(昭和45年) - 大荒沢信号場廃止。

隣の駅[編集]

日本国有鉄道

北上線

和賀仙人駅 - 大荒沢信号場 - 陸中大石駅(現:ゆだ錦秋湖駅)

外部リンク[編集]

山さ行がねが - 廃止跡地をリポート。

新線上の信号場跡

渇水期よりも水位が低い時に現れた旧線上の駅跡

[12] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main3.html

2014/9/14 7:35 【現在地】

これは10年前に今回と同じように点検水位になったときに撮影した写真である。このように駅の全体を俯瞰するアングルでは今回撮らなかったので、この写真を使って大荒沢駅の大雑把な構内配置を説明する。(「現在地」は、今回の探索のもの)

まず、この写真で黄色く塗った範囲は、駅の敷地として周辺よりも高くなっている(盛り土されている)場所である。

ほぼ平坦な大荒沢の集落跡にあって、駅だけがホームの高さ分だけ高いために、草木がまるでない状況ではよく目立っていた。

そして大荒沢駅には複数のプラットホームが存在する。

湖畔から見て奥、つまりかつての和賀川の流れに近い側に改札口と1番線ホームがあったとみられる。1番線ホームは片面の単式ホームで、おそらくは北上方面への列車が発着していたものと思う。

ちなみに、駅前には 一般県道大荒沢停車場線 があり、大荒沢集落の間を縫って和賀川対岸の平和街道(国道107号の水没した旧道)へ通じていた。

そして1番線と複線の線路を挟んで向かい合っていたのが、2番線と3番線を有する島式ホームで、そのどちらかが横手方面の乗降場だったのだろう。

また、ホーム間の移動通路は、現在でもローカル駅でしばしば見られる平面交差であっただろう。

そしてもうひとつ、改札の北上寄りに行き止まりの頭端式ホーム(幅は複線分だが車止めは北側の一基だけ存在)が存在している。これは貨物用ホームと思われる。

以上のように、大荒沢駅は、交換可能な旧国鉄駅の典型的な体裁を整えた立派な駅であった。

この撮影から10年後の我々は、湖底の泥濘を踏みしめて、はじめてこの駅のホームに立ち入ろうとしている。

まずは、最も“陸”に近い3番線。次いで2番線から1番線へ渡り、例の「 あれ 」を確かめたい!!。

意を決して、泥濘の大海へ漕ぎ出す。

いま見ているのは、3番線ホームの北上側端部の辺りで、地表の凹凸に浮き上がった最も大きな膨らみが目指すホームである。他にも薄らとした膨らみがあるが、バラストを盛られた線路の盛り上がりに他ならない。このような形で廃止前の線路配置が分かるというのも、なかなかに貴重な体験だった。

なお、これまでの偵察的要素を持った探索により、干上がってからあまり時間が経っていないこの泥濘の世界では、行動の自由が相当に限られていること

[15] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main4.html

さすがに、この坑口を目撃できることは、期待していなかった。

ダム建設による廃止、そして水没。

水面下でおおよそ40年を経過している、北上線 旧 仙人隧道の大荒沢坑口である。

2004年9月から11月にかけて、和賀ダムの改修工事のため、通常の最低水位よりもさらに最大で6mも水位を下げるという情報を手に、夕暮れ迫る現地へ赴いた私は、一面の泥の海と化した大荒沢に、幻の駅を見た。

駅だけではない。

その湖底には、当時の集落の痕跡から、田畑の区割り、沈んだ旧ダムまでが水面上に現れていたのだ。

そして、最大の目的であった、隧道の跡地へと、工事員の目を盗んで辿り着いた私。

そこには、未だ口を開ける廃隧道の姿があった。

紛れもなく、“沈没隧道”は、現存していたのである。

図中の緑色の経路を持って、坑門へと迫った私である。

いよいよ、その内部へと足を踏み入れるわけだが、これを執筆する前に、私自身確認しておきたいことがあった。

はたして、

本当にこの坑口部分は、今回の特別水位によってのみ、地上に現れるものであったのか?

今回の発見の、その貴重さを決定付けるファクターである。

興味のない方もおられるだろうが、いま暫しお付き合い願いたい。

この問の答えを得るためには二つの数字が必要だ。

一つは隧道坑口の標高。

もう一つは、ダムの設計水位についての資料だ。

隧道は大正13年に開通しており、当時は横黒線と呼ばれていたのだが、当時発刊された「横黒線建設概容」によれば、隧道の概容は右図の通りである。

同書は刊行が大正期であり、そこに記された詳細な断面図も、単位が分からない数字の羅列であり、かなり苦労させられた。

図中の各数字は、私がメートルに換算したもので、正確さについての責任は私にある。

また、原板の断面図には示されていないのだが、同書には横坑の存在が示されており、この位置なども可能な限り正確に図中に繁栄させたつもりだ。

なお、横坑は工期の短縮を目論んで建設されたもので、最終的には大荒沢・仙人両口に横坑を加えた3カ所から、工事が進められたという。

しかしそれでも、脆弱地質に悩まされたこともあり、全長1468mの竣工には2年を要した。

その掘鑿は、同線9つの隧道の中で唯一、電気掘削機を用いて行われており、工費も126万円余りを計上している。

この工

[17] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[18] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main4.html

くじ氏はさっさと奥へ進んで行ってしまったが、残る我々もそれを追った。

ボートはとりあえず入り口において、内部の水位などを確認することにした。

17日ぶりに立ち入る隧道内部。

風は感じられない。

ただ、閉塞隧道にありがちな、土臭さや、かび臭さもなく、内部には広い空洞が残存していることを感じさせる。

坑門付近では、おそらくは人工的に埋め戻された痕跡なのだろうが、天井近くまで土砂が堆積している。

コンクリートで薄く覆工された天井スレスレを、中腰で進むと、程なく2段階に盛り土は低くなっていき、間もなく本来の洞床に立つことになる。

坑門付近の、洞床からは一段階高い位置にて、振り返り撮影。

天井のコンクリート覆工は一部破壊され、灰色の煉瓦が覗いている。

煉瓦にも一部大きな欠損があるものの、ここを除けば洞内の煉瓦で崩壊を感じさせる場所は殆どない。

総じて撓みや変状もなく、廃後半世紀近くを経過し、竣工からは80年を超えているが、その保存状況はよい。

水没という状況が影響していた可能性もあるが、水没していない和賀仙人側の残存部分についても、決して保存状態は悪くなかったので、もとより本線きっての長大隧道として頑丈な造りだったのだとも考えられる。

内部には、定期的に現れる遺構が二つある。

一つは、狭い待避口。

もう一つは、この碍子である。

ちょうど内壁の側面と天井部分の施工の切り替わる場所に設置されている。

木製の取り付け部に、二つの碍子が縦に並んでいるのだが、本隧道内で見られる碍子は全て、黒かった。

触ってみたところ、ゴム製と思われたが、全体がゴムなのか、ゴムの靴下を履いているだけなのかは分からなかった。

(この碍子については記憶が不鮮明であり、同行者各位のアドバイス待ちです。)

17日前の前訪時に比較して、洞内には大きな変化があった。

それは、あれだけあった水が、すっかりと引いていたのだ。

足元の泥は依然深く、一歩一歩足を引っ張ったが、それでも進めないほどではない。

また、その泥の底には、かつて枕木が敷かれていただろう凹凸が、極めて規則的に並んでいることを、感触的に知った。

マグライトで照らし出させる50mほど先まで、全く水没している気配はない。

前回は、もうこの辺りで30cm以上の水深があり、早々に撤収したのだが…。

この調子なら、ボ

[19] 隧道レポート(初期レポート集2), , http://yamaiga.com/tunnel/tunnel2.html

このレポートの最終回ないしは最後に更新した回の 「この位置」に、レポートへの採点欄とコメント欄を用意しています。 あなたの評価、感想、体験談などをぜひ教えてください。

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前回紹介した、旧横荘鉄道廃線後に残る隧道のうち、唯一不通となっている隧道である。

ここを2002年春、山チャリがてらの内部調査を行った。

今回は、そのレポートである。

今回の探索のスタートは、この二井山集落である。

この地にかつて二井山駅があったが、廃止されて40年近く経過した現在では、そのことを伝えるのは、一本の立て札のみだ。

二井山集落を離れると、すぐにのぼりが始まる。

ここから長い山間部の道なりとなる。

かつての鉄路は、現在の車道(県道48号線)に沿って存在したようだが、その痕跡は見つけられなかった。

結構な勾配であり、SLや気動車では、速度は出なかっただろうなー。

1Km程で、車道は、直角のカーブで進路が変化する。

一応青看があるが、正面に道の表示は無く、事情がわからない人には、何のための青看なのか分からないことだろう。

このときは雪が残り、なおさらそうだったのかもしれないが、もはや正面に道あるとは思えないほど、廃線跡は自然に還ってしまっていた。

しかし、わたしの目はごまかせないぞ(笑)。

この切り通しが、廃線跡である。

今回は雪も残り、目的の二井山隧道はすぐ近くであることから、チャリはここにおいて徒歩での探索となった。

5年位前に来た時には、「通行止め」の表示があったりしたはずだが、現在では、もはやそれらも消滅していた。

この先の隧道は完全に、忘れ去られようとしているようだ。

県道48号線でもあるのに…。

切り通しには雪がいっぱい。

しかし、この雪のおかげで、通行(徒歩)はたやすかった。

たぶん夏場は…、身の丈もあるほどの雑草に覆われているのでは…?

ついに、異様な穴が見えてきた。

廃線跡には、水がたまり、雪解けのこの時期、小川のようになっていた。

スニーカー履きの私は、この期に及んでぬれるのをためらい、なかなか進行するのに難儀した。

いよいよ、入り口に接近。

ガードレールが道をふさいでいたが、もはや要を成さなくなっていた。

よく見ると、入り口両脇の崖は石組みになっているのが認められた。

それでは、いざ、内部へ!!

[20] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

大荒沢信号場

大荒沢信号場

仙人隧道

仙人隧道

本内隧道

本内隧道

小荒沢暗渠

小荒沢暗渠

履歴

[22] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933357388

メモ