大荒沢信号場

大荒沢信号場

[1] 錦秋湖, 北上線大荒沢信号場 (おおあらさわしんごうじょう) , 大荒沢駅 (おおあらさわえき)

39.2968323422415 140.874681472778

Webページ

[2] 大荒沢信号場 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%92%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E5%A0%B4

大荒沢信号場(おおあらさわしんごうじょう)は、かつて岩手県和賀郡西和賀町にあった日本国有鉄道(国鉄)北上線の信号場である。信号場となる前は駅であった。 和賀仙人駅とゆだ錦秋湖駅の中間点近くに位置した。

[3] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main3.html

2014/9/14 7:35 【現在地】

これは10年前に今回と同じように点検水位になったときに撮影した写真である。このように駅の全体を俯瞰するアングルでは今回撮らなかったので、この写真を使って大荒沢駅の大雑把な構内配置を説明する。(「現在地」は、今回の探索のもの)

まず、この写真で黄色く塗った範囲は、駅の敷地として周辺よりも高くなっている(盛り土されている)場所である。

ほぼ平坦な大荒沢の集落跡にあって、駅だけがホームの高さ分だけ高いために、草木がまるでない状況ではよく目立っていた。

そして大荒沢駅には複数のプラットホームが存在する。

湖畔から見て奥、つまりかつての和賀川の流れに近い側に改札口と1番線ホームがあったとみられる。1番線ホームは片面の単式ホームで、おそらくは北上方面への列車が発着していたものと思う。

ちなみに、駅前には 一般県道大荒沢停車場線 があり、大荒沢集落の間を縫って和賀川対岸の平和街道(国道107号の水没した旧道)へ通じていた。

そして1番線と複線の線路を挟んで向かい合っていたのが、2番線と3番線を有する島式ホームで、そのどちらかが横手方面の乗降場だったのだろう。

また、ホーム間の移動通路は、現在でもローカル駅でしばしば見られる平面交差であっただろう。

そしてもうひとつ、改札の北上寄りに行き止まりの頭端式ホーム(幅は複線分だが車止めは北側の一基だけ存在)が存在している。これは貨物用ホームと思われる。

以上のように、大荒沢駅は、交換可能な旧国鉄駅の典型的な体裁を整えた立派な駅であった。

この撮影から10年後の我々は、湖底の泥濘を踏みしめて、はじめてこの駅のホームに立ち入ろうとしている。

まずは、最も“陸”に近い3番線。次いで2番線から1番線へ渡り、例の「 あれ 」を確かめたい!!。

意を決して、泥濘の大海へ漕ぎ出す。

いま見ているのは、3番線ホームの北上側端部の辺りで、地表の凹凸に浮き上がった最も大きな膨らみが目指すホームである。他にも薄らとした膨らみがあるが、バラストを盛られた線路の盛り上がりに他ならない。このような形で廃止前の線路配置が分かるというのも、なかなかに貴重な体験だった。

なお、これまでの偵察的要素を持った探索により、干上がってからあまり時間が経っていないこの泥濘の世界では、行動の自由が相当に限られていること

[6] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[7] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

[8] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/oukoku/main3.html

錦秋湖畔に残るのは、旧国道の廃橋ばかりではない。

国鉄横黒線(現JR北上線)の廃線跡も、渇水期にはその姿を汀線ぎりぎりに現すのだ。

今回は、いよいよこの廃線跡へ。

大石橋と旧橋

徐々に改良が進む湖畔の橋の中で、未だに未改良のままある大石橋は、昭和35年の竣工である。

まさにダム工事による付け替え道路工事にあわせて建設された物だ。

そして、この大石橋の上からは、今までで最も良く原形をとどめる旧橋の姿を見ることができる。

大石沢に架かる旧橋は、両端こそ緑に飲まれているものの、非常に良く原形をとどめている。

まるで模型のような小さなアーチ橋は、見ていると自然と笑顔になれるような、やさしい魅力を感じる。

これはぜひ、行ってみたい!

ほぼ直上から見下ろした旧橋の姿。

なんともいえない構図にもう、クラクラである。

しかし、先述したとおり、現橋といえど大変に狭隘である上に、昼夜を問わず通行量のある国道である。

大型車などが通行すると大変に揺れるという状況では、長居も無用だろう。

ここに立ち止まっていては、通行の妨げになりかねない。

[10] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[11] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main2.html

足元に広がる一面の泥沼。

その異様な景観の主は、泥の中を一直線に横切る、鉄道とその駅の姿である。

重力式アーチダムとしては、現在でも国内第三位の規模を誇る湯田ダムは、昭和41年に完成している。

ダム堤を先頭に、和賀川流域の全長16kmに亘り水没域を生じさせ、移転を余儀なくされた世帯は622戸にも及んだ。

特に、ダム堤に最も近い位置にあったこの大荒沢集落では、集落全体が水没する状況となり、移転により集落は完全に消滅してしまった。

集落の中心部を通っていた国鉄北上線も移転の対象となったが、そこにあった大荒沢駅については、集落が消滅したために移転せず、昭和37年の現在線開通を待って廃止となった。

以来、ダムが通常運用上の最低水位となっても、決して湖上には現れない幻の廃駅として、40年余りの歳月を湖中に過ごしたのである。

地上へと現れた廃駅と、集落の確かな痕跡。

全ては厚い泥の底となり、土石流に呑み込まれ滅亡した遺跡のようでもある。

だが、それでも私は、万感の思いを持って、この景色を見る。

しばし、感動にむせび泣いた。

大げさでなく、夕暮れに輝くその景色は、私の心を揺さぶって、揺さぶって、

留まるところを知らぬ感激を、呼び起こしたのだ。

湖岸の高い位置に立ち、上流方向を見渡す。

大荒沢駅を出た鉄道路盤が、陸中大石駅(現在地に移転後に改名され「ゆだ錦秋湖駅」となる)へと向けて伸びている。

写真の奥の湖岸の斜面には、小さくスノーシェードの入り口が写っている。

通常の最低水位で地上に現れるのは、あのスノーシェードの辺りまでが限界である。

また、対岸には泥の扇状地。

むかし地理の授業か何かで習った気がするのだが、大河が注ぐ海底には、陸上に見られるような扇状地の規模を遙かに凌駕する、海底扇状地が、大陸棚まで続いているという。

対岸に見えている扇状地は、規模こそ大きくないが、やはり水中にあって醸成されてきた隠れた地形なのだと思うと、また感激してしまった。

そして、私は湖岸の広大な瓦礫の斜面に降り立った。

時刻は、16時21分。

もう夕日は背後の峠山に隠れ、その影が遠くダムサイトの近くまで伸びている。

写真奥左の白い崖の辺りがダムサイトである。

また、正面の崖の白い部分は、取水口である。

さらに、その右上の稜線がポコンと凹んだ場所が、古来

[14] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main7.html

山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、第二指令へ移行。

和賀軽便鉄道の跡を追跡開始。

和賀軽便鉄道への挑戦

我々は、平和街道跡をほぼ計画通り踏破し、和賀仙人駅前に停めていたパタ氏の愛車へと戻った。

そして、心地の良い疲れを感じながら、次の目標である、和賀軽便鉄道跡の踏破を成すべく、行動を開始した。

まずは、平和街道の入り口に停めていたくじ氏の車を、湯田ダムサイト上に移動した。

この湯田ダムサイトは、軽便鉄道の踏破を完全に成功した場合の脱出点となる見込みの場所だ。

それから、パタ氏の車に全員乗って、後半戦のスタート地点である仙人鐵工所跡へと移動した。

ここは、かつては和賀鉱山群の鉱石を大量に集積精錬した大工業地帯で、いまも北上市の衛星工業地区として息を繋いでいる。

ここには軽便鉄道時代の仙人駅が置かれていたと言うが、更地化され痕跡はない。

その山際を、現在のJR北上線がトンネルで繋いでいる。

現在地は、右の図中の「スタート地点」で示した場所である。

この後の予定を説明しよう。

我々の計画では、完全に軌道跡に追従して進み、湯田ダムによって行く手を阻まれるまでの踏破を最終目標とする。

前半は、旧北上線の廃線跡と平行する藪道が想定される。

また、中盤以降は、この踏破の最難所と思われる、大断崖地帯だ。

そして、大荒沢隧道(仮名)を経て、終盤の山岳地帯へと入る。

その距離、約2km。

この間、和賀川右岸には一切の並走路が無く、迂回路、エスケープルートもない。

しいて言えば、断崖を降りて和賀川を渡渉することで、国道への脱出が可能かも知れないが、それはもはやエスケープと言うよりも、危険な賭けとなるだろう。

途中で挫折した場合は、基本的には延々と戻ることになると考えて良い。

各車両の移動後、昼食を野外で摂り、計画を再度全員で打ち合わせ。

探険開始時刻は11時半を回っていた。

この軽便鉄道踏破こそが、今回の最大の目標であった。

平和街道など、当初オマケのつもりだった。

偵察時にくじ氏にひどく流血させ、未だその全容明かされぬ和賀軽便鉄道跡。

最強の部隊で最良の結果を残すため、単独踏破の栄光を放りなげ、私は仲間に助力を仰いだのだ。

わたしとて、なにもせずこの道を困難と決めつけていたわけではない。

今年1月の隧道レポで紹介して

[15] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main3.html

通常の水位では決して地上へと現れることもない、廃止されたダムの堤体を通って、左岸間近へと我々は移動した。

だが、ここから通常の汀線である湖岸の斜面までは、泥の沼地をおおよそ20mほど歩かねばならない。

一見して、そのうちの手前側10mほどは表面にひび割れもなく、足を踏み入れればどうなるのかは、もう体がよく分かっている。

体験したものにしか分からないことだと思うが、深い泥というのは、本当に危険なものであり、水ならば泳げば進むことも出来るだろうが、泥はそうも行かない。

実は、時として水没以上に難地であったりもするのだ。

写真でも、僅か2歩分だけ泥に進入した痕跡があるが、これは私が早まって進入し、危うく再び帰れなくなるところだった名残だ。

だが、くじ氏が指さす方向に、活路はあった!

これが、答えだ!

とは言っても、意味が分からないだろうから、補足説明。

最後尾のHAMAMI氏が通っている場所が、唯一通れるコースである。

そこは、コンクリの堤体の縁になっており、このときはちょうど汀線でもあった。

この縁の部分だけが、僅かに波で泥が流され、辛うじて定規一本分程度のコンクリが見えていた。

あとは、両足でしっかりと泥を切り崩しながら、足場を広げつつ歩くことで、此岸までのルートを確保できた。

言うまでもないが、泥のぬめったコンクリ上を滑り落ちれば、即 底の見えぬ湖にドボン!

かなり、恐かった。

恐かったが、全員無事にここを突破し、見事左岸に辿り着いた。

左岸の斜面。

通常は水面下になっている部分には、なにやら橋台のようなものが瓦礫に半ば埋もれていた。

この斜面の上部には、国道107号線が通っており、賑やかな道の駅も間近だ。

これらコンクリートや石垣の構造物が何であるかは、推測の域を出ないが、大荒沢ダムの関連施設であった可能性の他に、旧平和街道の遺構である可能性も捨てきれない。

確かに当時は、後の国道となる平和街道が、この左岸を通っていた。

やや左岸上流側から見た大荒沢ダムと、管理事務所跡と思われる建物(右)。

昭和初期としては規模の大きな発電用ダムだったが、“日本のTVA”とまで呼ばれた湯田ダム国策の前ではあえなく水没し、僅か20年と少しの寿命を終えてしまった。

これら失われた土地での体験が、私の和賀への愛着をより一層深くした事は間違

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933352024

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