石神井川

石神井川

[1] 石神井川 (しゃくじいがわ)

Webページ

[2] 石神井川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%B7%9D

石神井川(しゃくじいがわ)は、東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。流路延長25.2km、流域面積61.6km²。

[3] 石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/16682228/

さて、3回にわたって石神井川の源流部を探索してきたが、最後に源流部の変遷について、現地の状況や様々な資料からわかった範囲で纏めておこう。 石神井川は25kmを越える流路を有する都内の中小河川を代表する川のひとつでありながら、その源流についてはまとまったかたちで検証がされることがなかったようだ。様々な文献を見ると、「かつては小平市鈴木町で、現在は小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水」「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部の西側敷地)が源流」といった説明をよく目にするものの、カントリー倶楽部内の湧水は今では枯れているようだし、湧き出した水が何時頃どこをどう流れていたのかまではいずれも触れられていない。 そこで、古地図、公図、航空写真や、郷土誌、行政の刊行物、直接川とは関係のない資料などから石神井川源流部やそれに関連する水路の変遷について推定してみた。 (1)旧石器時代から江戸時代以前にかけての石神井川源流―鈴木遺跡 前回記事でも紹介した「鈴木遺跡」は1974年、鈴木小学校の建設時に発見された。旧石器時代後期、3万年前から1万年前の遺跡で、局部磨製石斧の発見で知られている。その規模は東西220m、南北330m(東西600m、南北670mとする資料も)にわたり、石神井川の流れる谷戸の源頭部(今の武蔵野団地)を囲む台地上にC字型に広がっていた。下の地図のオレンジ色の範囲にあたる(以下、地図はgoogle mapを加工)。

この時期はヴェルム氷期の最終期にあたり、海面は今よりも100m低かったというから、遺跡近辺の標高は約170mほどとなり、現在の青梅のあたりと同じだ。そこで湧き出ていた水はおそらく多摩川からの伏流水で、水量も豊富だったのだろう。現在の落合川の源流のように、大量の地下水が一度に地上に姿を現していたのではないか。鈴木遺跡資料館の展示物にあった当時の想像図に描かれた湧水はかなりの規模だ。

だが、縄文時代に入るとすでに水源はかなり東へ移り(現在の小金井街道付近か)、人々が生活するのに十分な水が得られなくなったという。そのため、鈴木遺跡周辺は生活の場から、狩猟採取の場に変化した。そして弥生時代になり農耕社会となると、水に乏しいことから一帯に人々が定住することはほとんどなくなったという。この状態は江戸時代に入るまで続いた。 これらの状況を考えると、鈴木町近辺が石神井川の

[105] @nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探す, , http://portal.nifty.com/2011/06/16/b/4.htm

石神井川と仙川

荒川水系の川と多摩川水系の川がすぐ近くを流れている場所。続いてやってきたのは小金井市。中央線の武蔵小金井駅と西武線の花小金井駅に挟まれたエリアである。

ここは荒川水系の石神井川と多摩川水系の仙川が東に向かって平行して流れている。

[106] 貫井川の支流の支流をたどる : 暗渠徘徊の日々, , http://ankyoneko.exblog.jp/14301232/

石神井川の支流が削った谷を順番に西へたどってきましたが、もう残りわずかとなりました。 今回は貫井川の東隣にある谷を訪ねます。 訪問日:2010/1/24 こちらが恒例の国土地理院の「数値地図 5mメッシュ(標高)」CD-ROMからの画像。 支流の流路を書いていないので分かりにくいですが、貫井川は本流はまっすぐ石神井川に注ぎますが、支流が東向きに分かれて、今回の谷よりも東まで行ってから石神井川に合流しています。 その支流に合流する支流なので、今回は「支流の支流」ということになります。

[109] 大谷口すり鉢エリア① マチュピチュ編: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/02/post-2ec0.html

やっと、大谷口に行けました。 ここは、去年ある方から教えていただいた場所です。すり鉢的には有名な場所なのかもしれませんが、私にとってはかなり魅力的でありながら、自力で辿りつくのは難しい情報だったと思います。

ある方、というのは、偶然にお会いした、河川・暗渠好きの方で、私が荒木町のすり鉢が良かったという話をしたら、大谷口を教えてくださいました。私より年若ながら、東京の地形のことをよく知っている人で、「若いのに、すごいなぁ」なんて感心した覚えがあります。

あちこちとさんぽしてきましたが、板橋はなかなか遠い印象がありました。が、ようやっと。大山の駅を降ります。以前、日大病院にお見舞いに行く機会が何度かあり、通るのはそれ以来です。大山の商店街を見るのは、サンドウィッチマンがM1取ったとき以来なので、これまたやや久しぶり。

そういえば以前大山のアーケードを歩いた時は、厚底ブーツを履いていました・・・ずいぶん前のことですね。あの頃は厚底なんて「全然」疲れませんでしたが、今じゃ数メートルで疲れるでしょうね、きっと。バランスだって、取れないかも。

アーケードを抜けると、「ハンサムらーめん」。うわぁw。・・・いや、でも、「ハンサム」という単語がむしろ新しく感じます。 その隣に材木屋さん。ここらへんたしか、千川上水が通っていたと思いますが、上水沿いにある材木屋さんって、どういうことなんでしょう。尾根沿いのわりかしまっすぐな運びやすい道があったということなのでしょうか。

さて、今回の第一の目的は「すり鉢を堪能する」なのですが、大谷口すり鉢エリアを通過するらしい、石神井川の支流をも堪能する予定です。

そこで、その水源といわれる大谷口1丁目のほうに向かいます。日大病院の脇を通過。 そしたら、もう無いものだとおもっていた、給水塔が見えました。リニューアルされていたんですねぇ。あたらしいけど、カタチは昔のものと同じなんですね。かわいいよなあぁ、あの帽子。

そして水源はこの近くみたいなのです。

もう遺構も、暗渠くささも何もない、きれいに舗装された道や、比較的新しい家が立ち並び・・・

でもこの道は、なんとなくあやしい。水源から、ここを流れ、すり鉢に向かうのでは・・・なんて、なんのあてもないのに勝手に妄想です。

その怪しい道の向い、コンビニの脇から北に向かおうとすると、おもむろにガックン!!と急降下し

[110] 六本木、麻布十番、元麻布の川跡(1)がま池からの流れ : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13955876

六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れて古川(渋谷川)に注いでいた小川の痕跡を再訪してきました。東京の水2005revisitedで、5年前にすでに詳しく記事にしていますが、なかなか面白いエリアですので、最新の写真をメインに2005年の写真、1997年の写真も織り交ぜて、何度かに分け、再度紹介してみます。六本木のところは、先日ちょうどブラタモリ最終回でも取り上げられていました。 ==================================================== まずは元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた小流を追ってみよう。 麻布十番から枝上に分かれる谷の一つに、有栖川宮記念公園の南側、谷頭の窪地には江戸時代より有名な「がま池」(「蝦蟇ケ池」)が残っている。「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされており、いくつか伝説が残っている。がま池の由来やその変遷については、こちらのサイトが詳しい。 明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれている。この時点で池の広さは1600平方メートル。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いている。

「五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より 現在の池の姿は、googlemapの空中写真で確認できる。池の広さはおよそ600平米。池の北側が埋め立てられ、池の上にせり出すかたちでマンションが建っている。中島はおそらく明治の地図に描かれているのと同じものだ。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまい、現在は、循環水で水面を維持しているようだ。

大きい地図はこちら 現在、住宅街の道路端と、とあるマンションの玄関脇にがま池の説明版が掲示されているものの、先のマンションの中庭となっていて、入ることはおろか見ることもできない。マンション入り口の看板には池を公開している旨書かれているが、聞いてみたところ公開していないとの回答。5年前に訊いたときにも、一時的に取りやめているといっていたが・・・現在のマンションは2002年に建替えられたもの。その際は建設業者が池の公開を約束したというが、どうも有名無実になっているようだ。 池の周囲も住宅に囲まれていて、その姿を見ることは不可能だったのだが、数年前に池

[111] , , http://www.kodaira.ed.jp/18kodaira/shisetsu2.html

鈴木遺跡

鈴木遺跡は、昭和49年6月に鈴木小学校建設予定地内で発見されました。発掘調査は、同年8月から56年3月まで鈴木遺跡調査団の手によって行われました。

遺跡は、石神井川源流の谷頭部に位置し、標高約74m、南北に334m、東西に220mの広がりをもっています。発掘総面積は13398�uにおよび主な出土品は、近世の陶器類、縄文時代の土器・石器など、旧石器時代のナイフ型石器・尖頭器・スクレイパー・彫刻刀・礫群・石斧などが出土し、総数112500点に及んでいます。

中でも石斧(局部磨製石斧)は、世界的にみても最古に属し、旧石器時代に磨製技術が存在したことを証明する貴重な石器です。また、礫群(蒸焼材理跡)・石器製作場・たき火跡などが発見され、学術研究を行う上で貴重な位置を占めるようになりました。

昔の道具

私たちの小平市や近くの町にすんでいた人々の生活や仕事に使われていた昔の道具です。昔の人びとの生活を想像してみましょう。

これらの品物は湊正之先生(みなとまさゆきせんせい)が農家からいただき、集めたものです。

[112] 大谷口すり鉢エリア② 風呂釜支流(仮)編: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/02/post-7a01.html

前回の続き、大谷口から石神井川に注いでいた支流を、河口から遡ります。

河口近く、最初の道路はちょっと広めの立派なものでした。 道沿いにあった、ちょっと惹かれる一角。食堂と、むかし本屋さんだったらしき店。

てくてく。あまり川らしさが無い道だったので、ほんとにここで良いのかなあ、とちょっと疑わしく思っていたところに、公園がありました。見てみると、「さくらづつみ公園」!

堤!? 立派めの桜がいっぱいありました。桜堤、なんて場所があったのだとしたら、なんだかすてきですね。

そしてその先の流路はあてずっぽうです。なんとな~~く歩いていくと、いきなり出現しました!

車止め×コンクリ蓋の完全体が!!

わーーー!やったぁ、なぜだかすっごくウレシイ! 初めて歩く、板橋の蓋暗渠です。

よく見ると、コンクリ蓋のサイドに、穴が開いてます。それから、ひとつひとつの奥行が、杉並のソレよりもずっと長いです。

まあ、杉並の中でも規格が違うことはあるのかもしれないですが、それにしても、「おお、なんだか蓋が違うぞ」というのが第一印象でした。

さて、支流を遡ります!

すっごいワクワクします~。

いままで辿ってきた暗渠とのもうひとつの違いは、圧倒的な私有地感、でしょうかw こういう物置がどっかり置いてあったり、所狭しと植木?があったり、いろいろ、いろいろ・・・

なかでもスゴかったのは、これ。

お風呂の浴槽・・・ですよねぇ。 でもって、タイヤですよねぇ。半分はプランター・・・?

でも浴槽があったのはここだけじゃなくて、この先にも、いくつもあったんです。ベビーバスも、何個も・・・w ベビーバスには雨水が溜められていたりして、用途はさまざまなのかもしれませんけど、ともかく風呂釜の多いこと!・・・てなわけで、ここは「風呂釜支流(仮)」と名づけることにいたしましたw

もすこし先には、こんなガタガタ・エリアが。

ぱっと見はちょっと怖いですが、歩いてみるとべつにガタガタ動くわけではなかったです。 スキマから底を見ようとしましたが、微妙に見えませんでした。(・・・おそらく、水は流れていないようでした)

かなりワンダーランドな風呂釜支流(仮)蓋暗渠部分でしたが、全長は短いものです。

そろそろ終焉・・・の前に、なんだか意味不明な場所でクライマックスですwなんだか色々なもんが釣り下がってます・・・

・・・罠? 罠なのか・・・?

[113] この春行きたい!東京の滅亡城跡めぐり - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/120329154596_1.htm

待ちに待った春が到来!

この4月から、大きな希望で胸をいっぱいに膨らませ、あこがれの東京で新生活を始める人も多いことだろう。

そんな皆さんに贈りたい。かつてこの地で覇を競い、繁栄を願いながら志半ばに散って行った多くの人々の夢の跡を。

[114] マセ口川 - 川のプロムナード, , http://riverpromenade.blog.fc2.com/blog-entry-49.html

2015.05

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2015.07

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流 マセ口川 (ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。 マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名 の由来は不明のようだ。 まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、 青渭神社 に立ち寄ってみる。 祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民 が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。 かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天 神社とも称されていた。 境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) さて 都立農業高校神代農場 からマセ口川を追い始めてみる。 前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として 譲渡された。 毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、 仕方なく西側沿いに歩いていく。 農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。 農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。 歩いていくと中央高速手前、右手に小さな 池ノ上神社 がある。 絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と 池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。 池ノ上という名前が興味をそそる。 その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。 谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。 その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。 ここから南へ 深大寺自然広場 が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と なってしまう。 中央道のガードを潜ると広場内に 野草園 がある。 園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意 が必要である。 その野草園の入口近くには湧水があり、かな

[115] 暗渠ハンター 馬込山王・楓谷を歩く: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-f93e.html

前回は大田区馬込付近の、池尻堀につながると思われる 「大仏支流」を追いました。 さて、せっかくここまで来たので、 大田区名物(?)の 「馬込山王・楓谷」(ろっちさん命名) の 北のほうの谷を横切って帰ろうと思います。 ほんとこの楓谷は見どころがいっぱいで、 足腰も鍛えられますw

立ち寄ったのは、この地形図の 「この谷A」「この谷B」。

まずは「この谷A」に環七からつまり下流からアプローチ。

実はここは、 この記事 を書いた時に 猫またぎさん から 「その裏にすごいとこあるよ」と教えていただいて、 立ちよらなかったことを激しく後悔したスポットでもありました。

「不自然に広い歩道」くらいしか暗渠サインは見当たりませんが、 この道は十分谷底感が味わえます。

まっすぐ登っていくと、萬福寺というお寺が小高い丘に建てられています。

入り口には「するすみ」の像が。 え?するすみって何だって?

漢字では「磨墨」。

平家物語の「宇治川の先陣」に出てくる名馬の名前です。 いやー、高校の教科書で出会って以来このストーリーは 全く忘れてしまっていたのですが、この馬の名前「するすみ」ばかりが 妙に頭に残っていて、たまに思い出して「するすみ」と口に出したりしていましたw なんか口に出してみたい日本語、じゃありません?「するすみ」。 ちなみに以前インターンではるばる会社に来たドイツ人は、 「デンシレンジ(電子レンジ)」という言葉が面白いといって、 自分で口に出しては笑っていましたっけ…。 確かに韻を踏んでて面白いような気もする。

あ、でその「宇治川の先陣」ってのは、 鎌倉幕府ができるちょっと前のお話で、源義経側にいる二人のオトコ、 するすみに乗った梶山某といけづきという馬に乗った佐々木某が、 合戦の途中で 「どっちが先に宇治川を渡って『やあやあわれこそは…』って 名乗りを上げるか」と張り合う短いエピソードです。 見事「馬に乗っての一番乗り」はするすみでなくいけづきになるのですが、 そのあと徒歩(かち)で渡ったのが大串某。 この大串某があまりにもちゃっかりしてたため敵味方ともにウケた、 というお話。

横道にそれましたが、 そのするすみの持ち主である梶山某縁のお寺だそうです。するすみ。

さてこのお寺の丘を挟んだ反対・北側にももう一つの谷筋があります。 もうこの辺は先のろっちさんの記事に詳しいの

[116] 暗渠ハンター 立会川・清水池「下」支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-b1b1.html

立会川の主な水源は、3つに大別でき、西から東へ順番に挙げると ①碑文谷八幡付近 ②碑文谷公園弁天池(碑文谷池) ③清水池公園清水池 となります。

このうち、最近この辺りを改めて探索してみて、 ・②の弁天池からさらに上流にある暗渠 ・③の清水池からさらに上流にある暗渠 ・③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠 などを見つけてきたので、 何回かに分けて書き進めて行こうと思います。 まず今回は、最後に挙げた 「③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠」のお話、いってみましょう。

清水池(それと、今後触れる弁天池・別名碑文谷池)については、 とっても詳しくわかりやすく説明する 目黒区のページ を見つけてしまったので、 これをご参照ください。

清水池は古くから湧水を湛える名勝地。

ここから立会川(のひとつ)が流れ出していくのですが、 清水池の南に、それに寄り添うように流れる一つの水路がありました。

位置からすると、 もしかしたら清水池からあふれ出すもう一本の水路だったのかもしれません。 (たぶんそう解釈した方が自然でしょう) ではまずは地図を。この緑色のラインです。

より大きな地図で 立会川 を表示

立会川の主ルート(紫線)はこちらなんですが、

これを下っていくとある一つ目の大きなカーブ。

ここに、左手の後方から鋭角に合流してくる水路があるのです。 それがこれ。 左が本流、右というか正面が今回取り上げる傍流です。

まあ清水池の下(南)あたりから始まってるから、 これを「立会川清水池下支流」と仮に名づけることにします。

この清水池下支流にちょっとだけ入って、 合流後の本流方面を眺めたのがこの写真。 合流点付近には点々をマンホールが連なっています。

ではここから上流に向かって入って行ってみましょう。

未舗装です。

草の生え方からいって、 交通量はたいへんに低そうな道ですねこれは。

その原因は、やはり「狭いから」でしょうね。

ですがある意味見事な暗渠です。 このワイルドさは 桃園川たかはら支流 (リンク先はnamaさんの「暗渠さんぽ」) の一部にちょっと通じるものがあります。

これですから。この連続ですから。

盛夏だし、もう見たことない羽虫とかが いつ出てきてもおかしくない雰囲気ですが、 私の好奇心がそれに勝るのだw

化石のようになったマンホール。

見た瞬間、ジョージ

[117] 暗渠ハンター 立会川・清水池のさらに上流があった!?①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-5706.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回に引き続いて清水池周辺の話題を続けます。 このシリーズは清水池の周りの短い暗渠を取り上げ続けるので、 「ANGLE」を使った考察はしばらくお休み。

実は、水源と言われている清水池のさらに上流には、 付近を走る品川用水からの取水路と思われる水路が 大きく二つ確認できます。

一つは今回で取り上げる東の水路( 清水池上流東水路 と名付けます)、 もうひとつは次回を予定している、 鷹番を貫く西の水路( 清水池上流西水路 と名付けます)。

元々は、「目黒区文化財マップ」に切れ切れに載っていた暗渠を参考にしました。 これらを周辺含めて辿りながら、そして「東京時層地図」を見ながら 「一つの水路」として考察していく方法を今回はとっています。

ではまず東の水路、 目黒区中央町1-10での品川用水との接点から 清水池に向かう流路をご紹介していきます。 品川用水の、目黒通りに下る手前からこんな暗渠が始まっています。

ちなみに、この背後にも暗渠が伸びていて、 つまり品川用水からはこれから辿る清水池方面と、 反対側の目黒区防災センター方面の二つの落水が この地点で行われていたことになります。 その防災センター方面の暗渠というのは、 この奥に続くやつ。

今回はこれは追わずに、清水池方面に向かいましょう。

緑道チックに整備されたこの暗渠を通ると

すぐに目黒通りに出ます。

そして目黒通りを越えると、 またこんな風に続いています。

ちなみにこの川筋のところは 目黒通りがこんなに凹んでいるので一目瞭然。 (写真奥の窪み)

この暗渠はまっすぐ続いていて、 おそらく住宅区画整理で付け替えされた用水路、 なのだと思われます。

ここを通って曲がったあとは、殆ど道に紛れてしまいます。

もう清水池の北側、池まで至近距離。 どうもこの辺りは西水路につながる水路含めて若干水路は錯綜しています。

清水池の隣のブロックにて、 また暗渠空気全開の道が姿を現します。

目黒区本町2-14。

そしてこのような広すぎる歩道を経て (まるで2車線道路のセンターラインみたいですね)

清水池につながっていきます。 ちなみにこの水路は、次回ご紹介する西水路とも東西に繋げているようです。

清水池まで来ました。

と、まあこんな具合に、 水源である湧水・清水池より上流で品川用水からの水を受け

[119] 暗渠ハンター 立会川・碑文谷池上流で妄想落ち水探し: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c067.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回は清水池から品川用水に遡上するラインを探してみました。 今回は、もうひとつの主水源である碑文谷池を起点にして おんなじようなことをしてみました。

池から遡る前に、ちょっと池自体のお話も。 名前自体も、碑文谷池とか碑文谷公園の弁天池とかどうも通称は二つあるようです。 また 目黒区のHP では、 前回の清水池とは「兄弟池」という位置づけだとしていますね。 江戸の鷹狩の時代に野鴨がたくさんいた、とか その後水田灌漑に活用されまた池の中の島に弁天様が祀られてるとか、 紆余曲折あって今は池を中心とした公園として整備されているからとか。 結構いい感じのテイストで取り上げられてますね。

で、ここでは「碑文谷池」としていますが、 同じ 目黒区のHPでもこちらでは 「弁天池」になってます。 ま、どちらでもいいんですが、ここでは「碑文谷池」でいきましょう。 弁天池だと他にもたくさんあるし。

まだ暗渠道にはまらないはるか昔、 東急東横線に毎日乗っていた時期は 電車の高架からこの池をほぼ毎日見ていたものです。 そのころは「なんて池かなあ」 「近所に住んでる同僚に聞いても池のこと知らなかったし、マイナーなんだろな」 「でもたまにボートで遊んでる人いるなあ」 くらいのぼんやり度でしか注意を傾けていませんでしたね…。 まあ基本的にそんなに華やかな池ではないわけです。

水源とされる池ですが、 どうも昔の地図をちらちら見たりしてると この上流方向にもたまに水路が見えたりしてるし。 しかもそれを延長していくと品川用水にぶち当たるし。

しかしまあ結論から言うと 品川用水とはここでジョイントしていた!的な エキサイティングな展開にはなりません;;; あ、そんながっかりしないでくださいよw

どうやら碑文谷池からは2系統の水路で 品川用水につながっていたのではないかと思っています。 ひとつは池から西に向かっていくやつと、 もうひとつは北に向かっていくやつ。

まず西方面からいきましょうか。 公園の西側にこんな入り口があって、

そこからこう歩道を通って上流が辿れます。

なんとこの歩道の右側(つまり左岸)には、プール! 日大水泳部の寮と温水プールがありました。 なるほど。

この歩道を上流に辿ると 寮の敷地に沿って、こんなふうにかくんと曲がります。

そして敷地の端まで行く途中

[120] 暗渠ハンター 貉窪をこえて洗足で「弁天橋」をみた。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-57be.html

以前、洗足池に流れ込む何本かの上流を探しに行ったんですが,、そのひとつとして大井町線北千束駅そばを掠めて環七に延びる 「貉窪」を散策 しました。

で。しばらくたってから、ドブ川研究家(?)の 俊六さんのブログ にレィルウェイライフさんという方が、 「洗足駅のそばに池と橋があって、その谷筋は洗足池につながってるかもしれない…」という コメントをされているのを 見て、これはいつか行かねば!確かめねば!と思っていました。 今回は、その貉窪と洗足駅そばの池とそれに繋がる川筋について、レポートします。

まずは前回の貉窪の谷頭を探しましょう。 環七に西から東にぶつかるのはここ。

環七は盛土されたような高台を通っていますが、この流れはその下にぶつかり低いまま。 高台・環七から貉窪の低い支流を見下ろします。

この低い流れが、環七の内側のどこにつながっているのかどうか・・・。 古地図をみると、貉窪の続きの谷頭がちょっとだけ環七内側に張り出しています。 それを探してみました。 地形から言って、ここのようです。

昭和大学歯科病院の横。ここ。

ではここで、地形を確認しましょう。 いつものように、google earthさんと東京地形図さんに感謝しつつ。

先の写真の環七内側のところは、上の図貉窪楕円形の右上の端っこです。

で、レィルウェイライフさんが指摘されていたのは地形図中の「厳島神社」近辺のこと。 どうもここは、環七内側から新たに始まる谷の途中にあり、 そのまま立会川方面に流れていくようですね。 つまり地形図で谷を辿っていくと、さっきの貉窪とはちょっと別の谷筋のようです。 おそらく環七の尾根(厳密には現環七と微妙に左右にズレがありますが)がもともと分水嶺になっていたのか…。

さてそれでは、この新たな東に流れる谷の谷頭を探してみよう!

環七から内側をじろじろ見ながらあるくと、一目瞭然で「ヤバい」感じの路地が見えます。

ここを入っていきましょう。路地の出口はこんな。

うーん、ワケありげです。たぶんここからドブのような流れが始まっていたのでは。 その先は、住宅ブロックを無視してわずかな高低差をおうことになります。 じつはここはそんなふうに住宅ブロックの真ん中を目黒区と品川区の区界が走るちょっとかわったところなのでした。 この写真。

敷地の両側に、左は目黒区洗足二丁目27、右は品川区

[121] 暗渠ハンター 大田区楓谷・崖を下る暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9d8e.html

前回の「 暗渠の愉しみバランスシート 」からいうと、今回の記事はこんな内容です。

では本文、行ってみます 。

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南馬込に行きました。そう、例の谷あたりに。 街角ねこさん写真家(でいいんでしょうかw)の ろっちさん が、 「楓谷」と名付けたところ 。 猫またぎさんをして「V字谷の聖地」と呼ばしめた 馬込の地形ですが、 楓谷はこの猫またぎさんが取り上げたエリアのもうちょっと南の方に位置します。

私もこの近辺は何度か断片的に記事にしました。 環七を両脇から囲む池尻掘りの 東 と 西 。 そして池尻堀東の奥から来る 大仏支流(仮)。 さらに池尻堀西の奥の奥から来る 池尻掘り南馬込1丁目支流(仮)。 その手前 のするすみ支流群(仮)。 そんなに家から近いわけじゃないのに、我ながらよく通ったものです。 会社で「住まいは馬込なんです」というひとがなぜか結構いるんですが、もうその一人一人に、「で、何丁目何番地?谷の底のほう?そばに坂はない?」と問い詰めたくなることが多いのですが、ずっと我慢してます。

で、今回はその楓谷エリアで、たぶんあまり知られていない(と思います;;;)暗渠を見てきたので、2回にわけてご報告します。

まずは全体の地形図をどうぞ。(GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

■序章代わりの「1」 では地形図の「1」とした矢印。これは、さきにご紹介した「楓谷」の命名者ろっちさんにすでにご紹介されてますので、軽く。 バスが行き来する南馬込1-60-5の尾根道からぽっかりとした暗渠が見えます。

ここからこの流れに階段で降りていきます。振り返るとこんな景色。 すでに秘境感満載ですね…。この先はこんなふうに続きます。

いったん道に出てガードレールに阻まれた後も…。

やはり階段で下ります。この谷のきつい高低差を物語りますね。

その先はいったん右に曲がって、左に曲がり、するすみ支流群(仮)の中心となる支流となって流れていくようです。

■するすみ支流群・南馬込2丁目崖支流(仮) 「2」 次は、今回新たに見つけたするすみ支流(仮)の副支流のひとつ。 それが地形図の矢印「2」。 南馬込2-23から唐突に始まる支流です。 ここ。

車の間をすり抜けて進んでみましょう。

進むと、崖

[122] 暗渠ハンター 大田区楓谷・こんどは断崖絶壁暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-4c65.html

■池尻堀西・馬込支流「3」

前回からの続きです。 今回の記事も、趣としてはこんな感じの「 暗渠の愉しみバランスシート 」となります。

まずは前回の地形図を再掲します。 (GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

今回は上地図の「3」という矢印のところ。 前回のするすみ支流群とは谷を異にするところですね。

「2」の場所から「3」へと移動する途中、 尾根道のT字路に井戸(サンタイガー式)がありました。なんか岬に立つ防人みたいな風情で。

このあたりから、これから下る谷を一望できます。

うっわーすっげえ高低差!とついつい「ですます調」が乱れてしまいます。

さてここ。南馬込3-17に突如金網が見えてきました。

覗き込んでみると…。

おわっ。 この先は崖になっていて、その崖を下る一筋の暗渠があるのです。 望遠で奥の方を見てみましょう。

大谷石で築かれた家の土台の高さを見ても、この谷の深さがわかるかと思います。 ただ、行く先がよくわかりません…。

この写真を撮った足元には、土管も見えています。

下流をなんとか確認するため、一つ先のブロックに回り込んでみましょう。 ブロックを囲む道は、こんな急階段になっていました。

そりゃそうだよなあ、あんな崖だったんだもんなあ…。

そして。 この階段を下りたところがまさに暗渠の出口だったのです。

右側に見えるお宅と階段とのスキマが暗渠。 半分プライベートな空間っぽかったので、 ちょっと覗き込んで写真を撮るのは自粛いたします。

ここからは、馬込二小の敷地の横を通って下っていく様子。

うん。道もちょっとヘンな造り。

この先すぐには 池尻堀西 が流れています。 おそらくそこに合流していたものと思います。 地理的にも時間的にも断片的にこの楓谷を巡ってきましたが、 ようやここへきて全体像を掴みかけたような気がしました。

より大きな地図で 池尻掘・六郷用水北堀・内川 を表示

[123] 暗渠ハンター オチのない内川支流の話。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0538.html

「大田区の文化財 第25集『地図で見る大田区』(2)」 という資料を眺めていたら、こんなものを見つけました。 そう、真ん中に流れる川(オレンジ色)は、内川。

明治19年測量、というこの地図には、 西から内川に合流する支流が二本くっきりと描かれています! 赤い丸のところ。

以前内川をたどっていて偶然見つけたのは もうちょっと上(北)のほうに位置する暗渠でしたが、 このあたりに暗渠なんてあったっけな…。

でもこんなに堂々と書かれているんだから、痕跡がないならないでいいや、行ってみよう! と鼻息も荒く出かけていきました。 大正9年の測量時にすでに消えているんですけどね。

まあ地形図でもね、こんなくっきり谷があるし、 なにか面白いことが待っているかもしれないし。 (東京地形地図さん毎度引用させていただいてます、ありがとうございます。)

一応東京都の下水道台帳をみるとこの川筋には合流式の下水道管が通っているので、まあ暗渠と呼んで差し支えはないかと思うんです。

以下、便宜上それぞれの住所から、南側を西馬込2丁目支流、 北側を西馬込1丁目支流と仮に呼ぶことにして話を進めてまいります。

■ 西馬込2丁目支流

2丁目支流は、南馬込5-27あたりで内川に合流します。 ちょうど都営地下鉄西馬込から延びてくる商店街の谷のところ。 一見なんの変哲もない商店街。

このあともなんの変哲もありません。 ただ、両脇を見るとぐぐっと下がった谷地形であることは間違いない。

国道1号線・第二京浜とまじわるところには、 文化堂というスーパーがあるのですが、 何かの資料で「ここに昔湧水があった」と書かれていましたので、 その湧水はこの西馬込2丁目支流にあわさって 内川へと流れ込んでいたのだと思います。

第二京浜を越えても川らしい跡が浮き上がってきません。

今日はテンションが低いまま終わってしまうかも知れません。 いまから覚悟しておいてください。 大阪の人と飲んでるときにオチのない話をして怒られたことがありませんか? そんな感じ。

道端に公園。 お。 なんか川っぽいもの発見!

でもこれ、絶対ダミーです。 でもこの公園の端っこが急にがくんと低くなっていて、 おそらく谷頭部はこのへんなのだと思います。

その谷頭の上のほう、西馬込2-9の界隈にはちょっとした路地が。

特定はできませんが、配水路などがあった

[124] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

[141] 地形マニアの聖地「赤羽」 スリバチあり、歴史あり、酒場ありの魅惑的な町 - SUUMOタウン, , http://suumo.jp/town/entry/akabane-norihisa.minagawa/

土地の高低差が町の個性を育み、町並みに意外な奥行き感を与えていることがある。

東京で「山の手」と呼ばれているエリアは坂道が多い。そして坂を上る、あるいは下りることで町の雰囲気が一変する場面にしばしば出会う。坂の上と坂の下では、性格の異なる町が崖を境に隣り合っているためだ。

だから街角で坂道や階段を見つけたら、面倒がらずに上り下りを楽しんでみてほしい。あなたの知らない世界が待っていることがある。北区の「 赤羽 」は、そんな楽しみが味わえる、特有の凸凹地形を持つ町である。

赤羽駅で途中下車し、スリバチと歴史の世界へ

私は、「谷」が多い東京の地形を観賞・体感する「東京スリバチ学会」を主宰し、休日に各地を歩き回っている。ちなみにスリバチとは都心に多い谷間や窪地のことで、地形の第一印象から、私が勝手に名付けた。詳しくは、記事最後のプロフィールを読んでほしい。

そんな私も平日は普通のサラリーマンである。建設会社の設計部門に所属し、建物の設計を手掛けている。

ようやく涼しくなった10月、設計提案のプレゼンテーションが無事に終わり、埼玉県のとある町から東京へと戻る電車の窓越しに、秋色に染まりつつある郊外の風景をぼんやりと眺めていた。リノベーションを骨子にした設計提案はクライアントに受け入れられたのだろうか。この2カ月間、会社の同僚とチームを組んで議論を交わしながら提案づくりに没頭し、まとめ上げた自慢の提案だった。

電車が長い鉄橋を渡りはじめ、車内に「次は赤羽」というアナウンスが流れてきた。昼飲みの聖地として有名な赤羽であるが、地形マニアの自分にとっては想い出の土地でもあった。地形に着目し町歩きを始めた15年前、土地の起伏の激しさと町並みの面白さに魅了され、見知らぬ町への冒険へといざなってくれた土地、それが赤羽なのだ。

納得できる提案に仕上げるため、ここしばらくは残業続きの日々だった。本日の帰社は諦めることにしよう。人生、山あり谷あり、働き方にもメリハリが必要なはずだ。赤羽には山も谷もある。プレゼン後もクライアントのオフィスに残り打ち合わせを続けていた同僚に「赤羽で打ち上げをやろう!」とメールし、途中下車をして赤羽の町を久しぶりに歩いてみることにした。

東京と埼玉の境に位置する北区の中でも、北部に位置する赤羽は、交通の便がよく「北の玄関口」と呼ばれている。最近では、町を舞台にしたド

石神井川羽沢支流

石神井川羽沢支流

履歴

[143] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933301245

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