巨椋池

巨椋池

[1] 巨椋池 (おぐらいけ)

Webページ

[2] 巨椋池 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%A4%8B%E6%B1%A0

巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。 豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖だった。

[3] 巨椋池3, , http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html

緑色の数字は、当時巨椋池に点在していた島の名前です。 現在、向島などにはたくさんの「島」の名から付けた小字があります。

1,槇島 2,夷島 3,大八木島 4,雲雀島 5,源兵衛島 6,大島 7,與五郎島 8,上島 9,下島 10,矢倉島 11,金井戸島 12,津田島 13,上林島 14,東定請(じょいけ)島 15,大河原島 16,大黒島 17,又兵衛島 18,野島 19,月貫島

平安時代になって、大和から平安京への道と言えば、山城の中央部に位置する「巨椋池」の存在が大きく影響した。

即ち陸上を行く限り巨椋池の東側か西側を通ることになる。

東は大和より出て、泉川【木津川】を越え、栗隈一族の古墳群を通り、宇治橋を渡り、岡屋津(港)を過ぎ櫃川【山科川】を越え、大亀谷を北へ。

西は泉川の西を北行、綴喜の古墳群を抜け男山を廻り山崎橋を渡るか、美豆から淀に渡しで越え、葛野川【桂川】に添い北上。

東西を結ぶ交通は、巨椋池の面積が大きく、沿岸の集落も少なかったため、陸路よりも舟によるものが発達していた。

大坂から上れば淀に着き、真っ直ぐ東に行けば岡屋・宇治へ。 よって淀・岡屋・宇治の港は重要な交通拠点であった。

その昔、全ての川は巨椋池に直結しており、また大型船が航行出来るほど水量も豊富であった。

平城京造営の際、近江や丹波などから木材を運ぶため、船で宇治川や桂川を下り、いったん巨椋池に入り、木津川を上り泉の里(木津)で陸揚げされ、大和へ。

当時、泉の里は木材の集積場であった。このことから木津の名が起こったといわれている。

足利幕府が天正元年(1573)、宇治槇島の地に名実ともに滅んだ後、織田信長は天下統一を目指し、まず安土城築城.

そして美濃から京都・大坂にかけての道路や橋梁の整備を行った。 宇治橋の修復もその一つであった。

その信長も天正十年、本能寺に没し、秀吉が跡を継ぐことになる。

秀吉は天下統一を果たした晩年に、伏見に隠居城(指月屋敷)の建設に取りかかる。

その屋敷は慶長の大地震により全壊、すぐ東に本格的な城郭の建設に取りかかる。

近くに旧淀城(納所城)があり、二つも城は不要とのことで淀城は破棄、その建造物は完成を急ぐ伏見城に移築された。

しかしこのことは、伏見だけだはなく宇治を含む山城盆地全体の景観の変化をもたらすことになる、宇治川改修事

[7] 淀川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

地理[編集]

大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれる。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を「新淀川」と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。従って、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。又、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。更に、神崎川に合流する猪名川も、淀川水系として包括される。

淀川開発史[編集]

為政者の治水・利水[編集]

淀川流域は古来より政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故古来仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり以後河川整備は繰り返されていたが、氾濫も度々起こり、時の白河法皇をして比叡山の僧兵・双六博打(賽の目)と共に鴨川の治水問題が悩みの種となっていた。

豊臣秀吉が晩年伏見に居を移すにあたって、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを直接巨椋池に流れ込む形から現在のような伏見への流れに変えたことであり、このことにより宇治川は伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削し、京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大

[8] 伏見港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津[1]・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に肥後橋[2]を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。[3]

江戸時代には角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。

明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり[4]、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。

蒸気船による水運は京都市と大阪市などを結ぶ鉄道が開通したあとも運賃が低廉だったことなどから一定の需要があったが、大峯ダム[5]の建設や京阪本線の開通による淀川(宇治川)での水運の衰退とともに港も衰退した[6]。第二次世界大戦後はほとんど使用されず放置されていたが1967年、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定され事業化されたことにより港湾機能を喪失した(但し、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている[7][8])。現在は、公園内に港湾施設の復元模型があるほか、濠川から三栖閘門の周辺は遊歩道が整備され観光用の十石舟が運航している。※観光船については、伏見十石舟を参照。

周辺には京橋・表町・柿ノ木浜・金井戸・北浜・西浜・

[9] 伏見港・三栖閘門資料館, , http://inoues.net/club6/mizukoumon.html

【三栖閘門の歴史・経緯】

昔より、宇治川は氾濫を繰り返し、洪水の被害にあってきた。桃山時代には豊臣秀吉が伏見に城下町を築き、太閤堤の建設など

宇治川の治水事業を行い、宇治川と濠川(ごうかわ)を結び河川港「伏見港」が造営され、以来江戸時代を通じて三十石船など

が伏見と大坂の間を行き来した。明治維新後は、琵琶湖疏水が開通し、大津から大阪までの新たな水運のルートが開拓され、宇

治川には三十石船などに代わって蒸気船(外輪船)が運航された。

大正6年(1917)、宇治川のいわゆる大正洪水が発生、治水工事が急務となり、翌大正7年、淀川改修増補工事が始まった。

大正11年、宇治川右岸の観月橋から三栖までの築堤工事が行われる。この工事によって宇治川と宇治川派流(濠川)との間に水

位差が生じ、船の通行ができなくなる。そこで、治水施設を兼ねて、宇治川と濠川との合流点に閘門(こうもん)を設けること

になった。昭和4年(1929)3月31日、三栖閘門が、着工から約3年をかけて完成する

昭和37年、国鉄や京阪電車の開通などにより船運がなくなり、天ヶ瀬ダムの完成で宇治川の水位が低下したため、三栖閘門はそ

の役割を終えた。昭和42年(1967)、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定される。

平成10年(1988)伏見港開港400年を記念して、濠川に十石舟が復活され、伏見南浜町から三栖閘門まで遊覧している(冬季

除く)。

近代化産業遺産とは,幕末から昭和初期にかけて,地域の産業近代化や技術発展に貢献した施設を経済産業省が認定したものである。

地域や産業にちなんだ全国の遺跡群を33に分類,575件が認定され,平成19年11月30日に「近代産業遺産群33」として

公表された。大隈君が定年前に努めていた、京都府綾部市の「グンゼ博物館」もこの指定を受けていた。

伏見では,分類番号28“日本酒製造の近代化を牽引した灘・伏見の醸造業の歩みを物語る近代化産業遺産群”に,、「伏見の日本酒

醸造関連遺産」として、「松本酒造酒蔵」、「月桂冠旧本社」、「月桂冠昭和蔵」、「旧大倉酒造研究所」、「内蔵酒造場」、「月

桂冠大倉記念館」、同館所蔵の「伏見の酒造用具」が指定され、「伏見の淀川舟運関連遺産」として、「三栖閘門(みすこうもん)」、

「三栖閘門資料館(旧操作室)」、「三十石船(復元)」、「十石舟(復元)」が認定され

[10] 産業技術遺産探訪〜三栖閘門、三栖閘門資料館、三栖洗堰, , http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2004/misu-koumon/misu-koumon.htm

宇治川展望スポット

「三栖閘門・後扉室」の塔に登って、宇治川の景色や伏見の町などを見ることができます。

三栖閘門巻上機モニュメント

三栖閘門・後扉室側の旧・巻上機

巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。この「三栖閘門巻上機モニュメント」は、「三栖閘門」の「後扉室」側(現在の宇治川展望スポット)で実際に使われていた巻上機をモニュメントとして設置したものです。

「三栖閘門巻上機モニュメント」の案内板には、「三栖閘門」の1929(昭和4)年の竣工時に閘室の壁として使用されていた鋼矢板が再利用されています。

三栖閘門資料館

(旧・三栖閘門操作室)

旧・三栖閘門操作室を復元した資料館です。三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介しています。

三栖閘門・閘室の1/60模型

三栖閘門は、濠川側の前扉室、宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されています。

濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。バイパス水路から閘室の水が汲み出され、水位が宇治川と同じになります。後扉室が開き、船が宇治川に進みます。

宇治川から濠川へ入るときは、バイパス水路から水を汲み入れ、閘室の水位を濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。

三十石船は、多くの物資を乗せて伏見・大阪間を行き来し、上りは1日または1晩を費やしましたが、下りは半日で料金も半額であったということです。年月とともに淀川の水運は三十石船から蒸気船へと移り、大阪と京都が鉄道で結ばれた後も、淀川は物資輸送の

として賑わっていました。三栖閘門は、大阪と京都を結ぶ水運に重要な役割を果たしていたのです。

「内務省」の紋が刻まれた「旧・三栖閘門操作室」の鬼瓦

三栖洗堰

閘室は船が航行していた当時の風景を再現し、船着場として利用しています。

観光用に「十石船」が往来していました。

淀川三十石の由来

淀川三十石船は、桃山時代初期(412年前)から淀川を上下していた客船または荷物船のことです。伏見京橋から大坂天満八軒家まで運行していました。当時客船は870隻、そのうち、三十石船は177隻でした。長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)で、お客は35名程度、船頭4名、上りは1日1夜、下りは半日で運航していた当時最大の交通機関でした。上りは綱を利用

[11] 京都 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD

この項目では、有史以降の日本の都市・都について記述しています。日本の自治体については「京都市」を、都道府県については「京都府」を、福岡県の郡については「京都郡」を、小惑星については「京都 (小惑星)」をご覧ください。

名称[編集]

「京都」の由来[編集]

東アジアでは古来、歴史的に「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗(司馬師)の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)と言うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。

日本でも飛鳥京や恭仁京などが京都とも呼ばれた。平安京において「京都」[4]が、定着したのは平安後期からで、京や京師という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が平安京の固有名詞[5]のようになり、定着していった。造都当時は「北京」とも呼ばれた。対して奈良のことを「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞「南都」として多用された。

京都と洛陽[編集]

古く京都は、しばしば中国王朝の都となった洛陽に因み、洛陽、京洛などといわれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという[6]。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため「洛陽」とは即ち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる[7]。また一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに洛陽のみが使われるようになったと考えられるという(「平安時代史事典」『洛中』)。京の都に上ることを上京(現在は東京に上る事を「上京」と言う)、上洛と言う。現在でも「洛陽工業高校」など固有名詞に残るほか、洛南・洛北・洛西・洛東といった呼称が使われている[8]。また、東京を含めた京都以外の地方から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」ということがある。特殊な例として「下洛」という語が平家物語に見られる。山法師が京中を侵すことを指した。また京域内を「洛中」と呼び、京

[12] 本初子午線をゆくPart I 京都編, , http://stelo.sakura.ne.jp/135e/hizakuri200203.htm

塩屋天体観測所 | 東経135度子午線を訪ねて | 子午線道中膝栗毛

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本初子午線をゆく Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>

京都改暦所旧跡 (中京区西ノ京西月光町)

ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお

[13] 第35回研究発表会(11.12.13) | 京都観光文化を考える会・都草, , http://www.miyakogusa.com/?activity=35111213

第35回研究発表会(11.12.13)

第35回研究発表会(11.12.13)   ◆日 時:平成23年12月13日午後1時10分~午後4時 ◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階 ◆研究発表:1.『ジョー岡田、波瀾万丈!82年分の話』都草会員 ジョー岡田 2.『京都名水巡りー京都の名水の多様性―』都草会員 西謙造 ◆参加人数:34名 ◆参加費 :300円   一般参加費 :500円 町を歩くと女性が振り向く御髪のジョー岡田さんは正真正銘の日本人で本名は岡田逸雄さんです。外人には「イツオ」と言うのは覚え辛くいようで「ジョー」は外国の友達から頂いた名前です。ガイドをした外国のお客様が自分の名前をあげるから「ジョー岡田」にしろ!ということで、それ以降は会社の名前も「ジョー岡田トラベルサービース」になり気分は半分外国人。日本中の人の中で一番大変な人生を過ごして来ましが、今日元気で都草会員の前でお話できることは嬉しいことです。と82年の人生のエピソードを語って頂きました。 普段は英語でのスピーチですが日本語でお話して頂きました。ジョー岡田さんの英語は独学です。敗戦時の中学3年生の時代までは、英語を習ってはいけない時代で当時は英語を話すと警察が調べにき、学校でも禁止でした。現在の自宅は昨年38.6℃と日本一の気温を記録した舞鶴から車で3時間をかけ、地道を走って来られました。高速を走らヂミチに行こう!ということです。(笑)でも人生はジミチではなくかなり飛んでいました。 「サムライショー」に使う軍刀は戦争中には尉官が帯刀する刀でした。鉄製で教育委員会に登録をしています。大根やリンゴを切ったりするのは練習刀で登録はいりません。竹等の硬い物は真剣でないと切れません。練習刀は5万円から10万円で軍刀も10万円位です。江戸時代の名刀は500万円から億、だそうです。     いよいよ軍刀を使ってのショーの始まりです。竹を切るのにアシスタントが必要という事で、最初の生贄は今井理事です。誰も持たずに立てた不安定な竹を切った後振り返り今井理事が支えている竹を、刀を振りおろしカットするという事です。以前ヨーロッパで行った時に親指を切ってしまい天井まで血が飛んだことがあるようです。その方とは親友になったようです(笑)今まで3300回して失敗は1回だけです。けっして動かないようにと言われ

履歴

[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933293422

メモ