伏見港

伏見港

[1] 伏見港 (ふしみこう)

Webページ

[2] 伏見港 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

[3] 産業技術遺産探訪〜三栖閘門、三栖閘門資料館、三栖洗堰, , http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2004/misu-koumon/misu-koumon.htm

宇治川展望スポット

「三栖閘門・後扉室」の塔に登って、宇治川の景色や伏見の町などを見ることができます。

三栖閘門巻上機モニュメント

三栖閘門・後扉室側の旧・巻上機

巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。この「三栖閘門巻上機モニュメント」は、「三栖閘門」の「後扉室」側(現在の宇治川展望スポット)で実際に使われていた巻上機をモニュメントとして設置したものです。

「三栖閘門巻上機モニュメント」の案内板には、「三栖閘門」の1929(昭和4)年の竣工時に閘室の壁として使用されていた鋼矢板が再利用されています。

三栖閘門資料館

(旧・三栖閘門操作室)

旧・三栖閘門操作室を復元した資料館です。三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介しています。

三栖閘門・閘室の1/60模型

三栖閘門は、濠川側の前扉室、宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されています。

濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。バイパス水路から閘室の水が汲み出され、水位が宇治川と同じになります。後扉室が開き、船が宇治川に進みます。

宇治川から濠川へ入るときは、バイパス水路から水を汲み入れ、閘室の水位を濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。

三十石船は、多くの物資を乗せて伏見・大阪間を行き来し、上りは1日または1晩を費やしましたが、下りは半日で料金も半額であったということです。年月とともに淀川の水運は三十石船から蒸気船へと移り、大阪と京都が鉄道で結ばれた後も、淀川は物資輸送の

として賑わっていました。三栖閘門は、大阪と京都を結ぶ水運に重要な役割を果たしていたのです。

「内務省」の紋が刻まれた「旧・三栖閘門操作室」の鬼瓦

三栖洗堰

閘室は船が航行していた当時の風景を再現し、船着場として利用しています。

観光用に「十石船」が往来していました。

淀川三十石の由来

淀川三十石船は、桃山時代初期(412年前)から淀川を上下していた客船または荷物船のことです。伏見京橋から大坂天満八軒家まで運行していました。当時客船は870隻、そのうち、三十石船は177隻でした。長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)で、お客は35名程度、船頭4名、上りは1日1夜、下りは半日で運航していた当時最大の交通機関でした。上りは綱を利用

[4] 竹田街道, , http://www.geocities.jp/ikoi98/kyouto/takedakaidou.html

竹田街道は、江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた。同じく京と伏見を結ぶ伏見街道の西方にあって、伏見街道が名所旧跡に富んだ観光ルートであったのに対し、竹田街道はもっぱら牛車による物資の輸送を目的とした産業道路であった。

「口」とは出入り口としての土塁の切れ目である。豊臣秀吉が京に聚楽第を建ててその権力の頂点にあったとき、京都を土塁と堀でぐるりと囲った。土塁は御土居(おどい)とよばれ洛中、洛外の境界をなした。現在の京都駅付近の御土居は七条高倉から高倉通りを南下し、塩小路と八条通りの中間付近で西に折れ、油小路を南下して九条通りで再び西に延びていた。この前半の部分、七条高倉からセンチュリーホテルの南側にかけて逆L字形のいびつな形をした東塩小路向畑町がある。この区画が御土居の築かれた場所であろう。東塩小路向畑町の西端、現在の京都駅ビルに接する所に御土居の竹田口があった。その南北の通りを東洞院という。

現在の竹田街道(府道115号)はJR京都駅の南側、東洞院八条の竹田街道八条交差点から始まっている。京都駅が現在地より北寄りの塩小路通り近くにあったころ、竹田街道は八条からそのまま東洞院通りを上がって塩小路交差点に通じていた。ここが近代の竹田街道起点である。明治28年(1895)ここから我国最初の電気鉄道(後の京都市電)が伏見に向けて出発した。交差点の南西角に京都市電発祥の地の石碑が建っている。

南に向かって歩き出す。すぐに駅ビルに隣接する建物にぶつかる。JR忘れ物センターがある。このあたりが御土居の竹田口があった場所だ。線路に沿って高倉通りにでて、陸橋を迂回して竹田街道八条交差点にでる。

九条大石橋交差点を東にはいった陶化小学校の正門内に、竹田街道に敷かていた車石が残されている。伏見港と京との物資輸送を担う牛車がぬかるみで立ち往生しないように、わだちを削った敷石で街道に牛車専用レーンを設けた。鉄道線路のように厳格でなくとも、牛車の車輪幅は一定だったということか。分厚い石で、これを延々6kmも並べるのはさぞかし大変な工事であったろう。

隣に立つ「石敢当」(せきかんとう)と刻まれた常夜燈は安政元年(1854)建立のもので、鴨川に架かる勧進橋に建っていたものである。

竹田街道札辻交差点にさしか

[5] 伏見港・三栖閘門資料館, , http://inoues.net/club6/mizukoumon.html

【三栖閘門の歴史・経緯】

昔より、宇治川は氾濫を繰り返し、洪水の被害にあってきた。桃山時代には豊臣秀吉が伏見に城下町を築き、太閤堤の建設など

宇治川の治水事業を行い、宇治川と濠川(ごうかわ)を結び河川港「伏見港」が造営され、以来江戸時代を通じて三十石船など

が伏見と大坂の間を行き来した。明治維新後は、琵琶湖疏水が開通し、大津から大阪までの新たな水運のルートが開拓され、宇

治川には三十石船などに代わって蒸気船(外輪船)が運航された。

大正6年(1917)、宇治川のいわゆる大正洪水が発生、治水工事が急務となり、翌大正7年、淀川改修増補工事が始まった。

大正11年、宇治川右岸の観月橋から三栖までの築堤工事が行われる。この工事によって宇治川と宇治川派流(濠川)との間に水

位差が生じ、船の通行ができなくなる。そこで、治水施設を兼ねて、宇治川と濠川との合流点に閘門(こうもん)を設けること

になった。昭和4年(1929)3月31日、三栖閘門が、着工から約3年をかけて完成する

昭和37年、国鉄や京阪電車の開通などにより船運がなくなり、天ヶ瀬ダムの完成で宇治川の水位が低下したため、三栖閘門はそ

の役割を終えた。昭和42年(1967)、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定される。

平成10年(1988)伏見港開港400年を記念して、濠川に十石舟が復活され、伏見南浜町から三栖閘門まで遊覧している(冬季

除く)。

近代化産業遺産とは,幕末から昭和初期にかけて,地域の産業近代化や技術発展に貢献した施設を経済産業省が認定したものである。

地域や産業にちなんだ全国の遺跡群を33に分類,575件が認定され,平成19年11月30日に「近代産業遺産群33」として

公表された。大隈君が定年前に努めていた、京都府綾部市の「グンゼ博物館」もこの指定を受けていた。

伏見では,分類番号28“日本酒製造の近代化を牽引した灘・伏見の醸造業の歩みを物語る近代化産業遺産群”に,、「伏見の日本酒

醸造関連遺産」として、「松本酒造酒蔵」、「月桂冠旧本社」、「月桂冠昭和蔵」、「旧大倉酒造研究所」、「内蔵酒造場」、「月

桂冠大倉記念館」、同館所蔵の「伏見の酒造用具」が指定され、「伏見の淀川舟運関連遺産」として、「三栖閘門(みすこうもん)」、

「三栖閘門資料館(旧操作室)」、「三十石船(復元)」、「十石舟(復元)」が認定され

[6] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<東洞院通車道(竹田街道)・前編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-ff62.html

街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<竹田街道>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、京都から南へと延びる、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた幹線道路で、鳥羽街道や伏見街道とともに、重要な道だった。ルートは、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていた牛車による物資輸送を主目的とした産業道路的街道だったと思われます。伏見港からは、水路で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

竹田街道は、逢坂山と同じく荷車の往来が盛んだった「車石」が敷かれた街道でした。

伏見といえば京橋を中心としています。街道の出発点も何といっても、ここ京橋です。秀吉の伏見城の城下町として、又、淀川より大坂への水路交通の基点として栄えました。

京橋より左(西)右(東)は淀川派流・濠川の三十石舟等の物資運搬の荷揚げ浜・伏見港の中心南浜(寺田浜)などで賑っていました。京橋附近の様子はこちら又は、こちらをご覧ください

1筋北の魚屋通(下油掛通)です。右角には老舗の「駿河屋」さんがあります。

その前に「チンチン電車」発祥の碑が建てられています。約100年前、明治28年に竹田街道の終点・塩小路東洞院通まで約7Kmを走りました。

もう1筋北の大手筋通です。

右(東)を行けば江戸時代は伏見城大手門に繋がっていました。

又1筋北の毛利橋通。通の名前は中国地方の「毛利家」の屋敷があったことから来ています。

その先、突き当たりを左に曲がります。肥後橋という停留所がありました

右(東)に寄り道しますと、平屋の古民家が見られます

こちらは浄土宗「西光寺」

本堂

通常は地蔵堂なのですがこちらは如来坐像?

お隣の虫籠窓の見える古民家

街道を左(西)に

右に「西養寺」・寛永九年創建、本堂は元禄六年上棟の真宗寺院で市内最古に属する様式を残した建物で市の文化財です

本堂

本堂の様式を詳しく説明されています

門前の地蔵堂

街道はその先の信号を右に折れます。京橋からここまでチンチン電車はこの道を走

[7] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<竹田街道(東洞院通車道)・後編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-4036.html

街道見て歩きも、

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回も、<<竹田街道・後編>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていて、伏見港からは、水路(淀川)で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

と思っていたら、前回の終わりにも書きましたが、竹田街道の基点・塩小路東洞院は南の拠点で、北は丸太町通・御所であることが分かりました。

そこで今回は京都市内を北に、東洞院通を歩きました。

前回の北の基点です。今回はここから歩きます。

東洞院通の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」(仙洞御所)と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われます。天正の地割(1590年)後、竹田街道へ連なる幹線道路となり、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行にしました。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まったようです。塩小路通りより北を望む。

すぐ「七条通り」が見えてきます

「下数珠屋通り」手前の町並み

同通りの左手・西には東本願寺があり、通りの名の通りお寺に関連したお店がずらり。

反対の東はご存知「枳穀邸・渉成園」・東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんでこう呼ばれました。

嘉永18年、この地を徳川家光から寄進を受けた宣如上人が、石川丈山らと庭園を築き別邸としました。

源氏物語主人公・光源氏のモデルとされた「源融(みなもとのとおる)」の河原院の跡に近くに、「印月池」を中心に、平安朝の面影を残した、楼門「傍花閣」、書院「閬風亭」「滴翠軒」「臨池亭」、茶席「漱枕居」「宿遠亭」、持仏堂「園林堂」、橋廊「回棹廊」を配した庭園となっています。

地蔵堂ではなく珍しい「大日如来石仏」が祀られていました。民家の奥には古い蔵がのぞいていました。

本願寺詣での宿屋さんでしょうか風情のある旅館「井筒安」さん。創業天保十年(1839年)から代々受け継がれてきた数奇屋造りの京町屋です。

正面通りの東に「枳穀邸」が見えます。西は「東本願寺」さ

[8] 淀川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

地理[編集]

大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれる。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を「新淀川」と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。従って、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。又、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。更に、神崎川に合流する猪名川も、淀川水系として包括される。

淀川開発史[編集]

為政者の治水・利水[編集]

淀川流域は古来より政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故古来仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり以後河川整備は繰り返されていたが、氾濫も度々起こり、時の白河法皇をして比叡山の僧兵・双六博打(賽の目)と共に鴨川の治水問題が悩みの種となっていた。

豊臣秀吉が晩年伏見に居を移すにあたって、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを直接巨椋池に流れ込む形から現在のような伏見への流れに変えたことであり、このことにより宇治川は伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削し、京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大

[9] 京都観光Navi:三栖閘門と伏見みなと広場, , http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000116

内容概要

桜などの緑いっぱいの「伏見みなと広場」、伏見の町並みを見渡せる「宇治川展望スポット」、三栖閘門の歴史を解説する多くの資料が展示された「三栖閘門資料館」などがあり、通称「伏見のパナマ運河」はダイナミックに皆様をお迎えします。

[10] 巨椋池3, , http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html

緑色の数字は、当時巨椋池に点在していた島の名前です。 現在、向島などにはたくさんの「島」の名から付けた小字があります。

1,槇島 2,夷島 3,大八木島 4,雲雀島 5,源兵衛島 6,大島 7,與五郎島 8,上島 9,下島 10,矢倉島 11,金井戸島 12,津田島 13,上林島 14,東定請(じょいけ)島 15,大河原島 16,大黒島 17,又兵衛島 18,野島 19,月貫島

平安時代になって、大和から平安京への道と言えば、山城の中央部に位置する「巨椋池」の存在が大きく影響した。

即ち陸上を行く限り巨椋池の東側か西側を通ることになる。

東は大和より出て、泉川【木津川】を越え、栗隈一族の古墳群を通り、宇治橋を渡り、岡屋津(港)を過ぎ櫃川【山科川】を越え、大亀谷を北へ。

西は泉川の西を北行、綴喜の古墳群を抜け男山を廻り山崎橋を渡るか、美豆から淀に渡しで越え、葛野川【桂川】に添い北上。

東西を結ぶ交通は、巨椋池の面積が大きく、沿岸の集落も少なかったため、陸路よりも舟によるものが発達していた。

大坂から上れば淀に着き、真っ直ぐ東に行けば岡屋・宇治へ。 よって淀・岡屋・宇治の港は重要な交通拠点であった。

その昔、全ての川は巨椋池に直結しており、また大型船が航行出来るほど水量も豊富であった。

平城京造営の際、近江や丹波などから木材を運ぶため、船で宇治川や桂川を下り、いったん巨椋池に入り、木津川を上り泉の里(木津)で陸揚げされ、大和へ。

当時、泉の里は木材の集積場であった。このことから木津の名が起こったといわれている。

足利幕府が天正元年(1573)、宇治槇島の地に名実ともに滅んだ後、織田信長は天下統一を目指し、まず安土城築城.

そして美濃から京都・大坂にかけての道路や橋梁の整備を行った。 宇治橋の修復もその一つであった。

その信長も天正十年、本能寺に没し、秀吉が跡を継ぐことになる。

秀吉は天下統一を果たした晩年に、伏見に隠居城(指月屋敷)の建設に取りかかる。

その屋敷は慶長の大地震により全壊、すぐ東に本格的な城郭の建設に取りかかる。

近くに旧淀城(納所城)があり、二つも城は不要とのことで淀城は破棄、その建造物は完成を急ぐ伏見城に移築された。

しかしこのことは、伏見だけだはなく宇治を含む山城盆地全体の景観の変化をもたらすことになる、宇治川改修事

[11] 三栖閘門資料館 - poncho7の日記, , http://d.hatena.ne.jp/poncho7/20120525

今日は三栖閘門資料館に行きました。 三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として1929年に造られた、2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を繋いで船を通す施設です。 昔はたくさんの船が閘門を通って、伏見と大阪の間を行き来していたようです。 今では、道路や鉄道の発達にともない、交通には利用されていないようです。 資料館はかつて閘門の操作室として使われた建物を復元したものでした。 資料館には、60分の1サイズの閘門の模型がありました。それによると、閘門は濠川側の前扉室と宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されていて、濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。水路から閘室の水が汲み出され、水位が下がって宇治川と同じになり、後扉室が開き、船が宇治川に進むという仕組みでした。 宇治川から濠川へ入るときは、水路から水を汲み入れ、閘室の水位を上げて濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。 琵琶湖から流れ出る川が1本だけで、その川が瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えながら大阪湾に注いでいること、そして昔の人はその流れを使って物資や人を運んでいたということがよくわかりました。 資料館とは関係の無い話なのですが、 資料館の近くで2羽のハトが並んでたので見ていると、交尾を始めました。 鳥の交尾って一瞬なんですね。 というか、動物が交尾をする瞬間を生で見たのは初めてだったので、驚きました。

[12] 竹田街道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E8%A1%97%E9%81%93

竹田街道(たけだかいどう)は、京(京都市中心部)と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つ。京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、旧紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた。 奈良街道や大坂街道の一部とも位置づけられる。

現在でもなお京都市中心部と伏見市街を結ぶとともに、奈良方面へとつながる国道の一部として主要な幹線道路となっている。

沿革[編集]

竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。

現在の道のり[編集]

現在は京都府道115号伏見港京都停車場線(竹田街道十条より深草加賀屋敷町までは国道24号との重複)が竹田街道と呼ばれている。同府道は、竹田街道八条から伏見の京都外環状線までを結んでいる。

東洞院通の延長上にあるが現在は京都駅で断絶しているため、京都駅の北側へは高倉跨線橋(通称・たかばし)によって塩小路高倉で高倉通とつながっている。

約1km東の山沿いを伏見街道が並行している。

交差する道路など[編集]

交差する道路などの特記がないものは市道。

交差する道路など

西←<竹田街道>→東

交差する場所

路線番号

烏丸五条から

(km)

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933292990

メモ