三栖閘門

三栖閘門

[1] 三栖閘門 (みすこうもん)

Webページ

[2] 産業技術遺産探訪〜三栖閘門、三栖閘門資料館、三栖洗堰, , http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2004/misu-koumon/misu-koumon.htm

宇治川展望スポット

「三栖閘門・後扉室」の塔に登って、宇治川の景色や伏見の町などを見ることができます。

三栖閘門巻上機モニュメント

三栖閘門・後扉室側の旧・巻上機

巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。この「三栖閘門巻上機モニュメント」は、「三栖閘門」の「後扉室」側(現在の宇治川展望スポット)で実際に使われていた巻上機をモニュメントとして設置したものです。

「三栖閘門巻上機モニュメント」の案内板には、「三栖閘門」の1929(昭和4)年の竣工時に閘室の壁として使用されていた鋼矢板が再利用されています。

三栖閘門資料館

(旧・三栖閘門操作室)

旧・三栖閘門操作室を復元した資料館です。三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介しています。

三栖閘門・閘室の1/60模型

三栖閘門は、濠川側の前扉室、宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されています。

濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。バイパス水路から閘室の水が汲み出され、水位が宇治川と同じになります。後扉室が開き、船が宇治川に進みます。

宇治川から濠川へ入るときは、バイパス水路から水を汲み入れ、閘室の水位を濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。

三十石船は、多くの物資を乗せて伏見・大阪間を行き来し、上りは1日または1晩を費やしましたが、下りは半日で料金も半額であったということです。年月とともに淀川の水運は三十石船から蒸気船へと移り、大阪と京都が鉄道で結ばれた後も、淀川は物資輸送の

として賑わっていました。三栖閘門は、大阪と京都を結ぶ水運に重要な役割を果たしていたのです。

「内務省」の紋が刻まれた「旧・三栖閘門操作室」の鬼瓦

三栖洗堰

閘室は船が航行していた当時の風景を再現し、船着場として利用しています。

観光用に「十石船」が往来していました。

淀川三十石の由来

淀川三十石船は、桃山時代初期(412年前)から淀川を上下していた客船または荷物船のことです。伏見京橋から大坂天満八軒家まで運行していました。当時客船は870隻、そのうち、三十石船は177隻でした。長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)で、お客は35名程度、船頭4名、上りは1日1夜、下りは半日で運航していた当時最大の交通機関でした。上りは綱を利用

[3] 伏見港・三栖閘門資料館, , http://inoues.net/club6/mizukoumon.html

【三栖閘門の歴史・経緯】

昔より、宇治川は氾濫を繰り返し、洪水の被害にあってきた。桃山時代には豊臣秀吉が伏見に城下町を築き、太閤堤の建設など

宇治川の治水事業を行い、宇治川と濠川(ごうかわ)を結び河川港「伏見港」が造営され、以来江戸時代を通じて三十石船など

が伏見と大坂の間を行き来した。明治維新後は、琵琶湖疏水が開通し、大津から大阪までの新たな水運のルートが開拓され、宇

治川には三十石船などに代わって蒸気船(外輪船)が運航された。

大正6年(1917)、宇治川のいわゆる大正洪水が発生、治水工事が急務となり、翌大正7年、淀川改修増補工事が始まった。

大正11年、宇治川右岸の観月橋から三栖までの築堤工事が行われる。この工事によって宇治川と宇治川派流(濠川)との間に水

位差が生じ、船の通行ができなくなる。そこで、治水施設を兼ねて、宇治川と濠川との合流点に閘門(こうもん)を設けること

になった。昭和4年(1929)3月31日、三栖閘門が、着工から約3年をかけて完成する

昭和37年、国鉄や京阪電車の開通などにより船運がなくなり、天ヶ瀬ダムの完成で宇治川の水位が低下したため、三栖閘門はそ

の役割を終えた。昭和42年(1967)、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定される。

平成10年(1988)伏見港開港400年を記念して、濠川に十石舟が復活され、伏見南浜町から三栖閘門まで遊覧している(冬季

除く)。

近代化産業遺産とは,幕末から昭和初期にかけて,地域の産業近代化や技術発展に貢献した施設を経済産業省が認定したものである。

地域や産業にちなんだ全国の遺跡群を33に分類,575件が認定され,平成19年11月30日に「近代産業遺産群33」として

公表された。大隈君が定年前に努めていた、京都府綾部市の「グンゼ博物館」もこの指定を受けていた。

伏見では,分類番号28“日本酒製造の近代化を牽引した灘・伏見の醸造業の歩みを物語る近代化産業遺産群”に,、「伏見の日本酒

醸造関連遺産」として、「松本酒造酒蔵」、「月桂冠旧本社」、「月桂冠昭和蔵」、「旧大倉酒造研究所」、「内蔵酒造場」、「月

桂冠大倉記念館」、同館所蔵の「伏見の酒造用具」が指定され、「伏見の淀川舟運関連遺産」として、「三栖閘門(みすこうもん)」、

「三栖閘門資料館(旧操作室)」、「三十石船(復元)」、「十石舟(復元)」が認定され

[4] 三栖閘門資料館 -公式サイト-, , http://www.misu-museum.jp/index.html
[5] 京都観光Navi:三栖閘門と伏見みなと広場, , http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000116

内容概要

桜などの緑いっぱいの「伏見みなと広場」、伏見の町並みを見渡せる「宇治川展望スポット」、三栖閘門の歴史を解説する多くの資料が展示された「三栖閘門資料館」などがあり、通称「伏見のパナマ運河」はダイナミックに皆様をお迎えします。

[6] 三栖閘門資料館 - poncho7の日記, , http://d.hatena.ne.jp/poncho7/20120525

今日は三栖閘門資料館に行きました。 三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として1929年に造られた、2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を繋いで船を通す施設です。 昔はたくさんの船が閘門を通って、伏見と大阪の間を行き来していたようです。 今では、道路や鉄道の発達にともない、交通には利用されていないようです。 資料館はかつて閘門の操作室として使われた建物を復元したものでした。 資料館には、60分の1サイズの閘門の模型がありました。それによると、閘門は濠川側の前扉室と宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されていて、濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。水路から閘室の水が汲み出され、水位が下がって宇治川と同じになり、後扉室が開き、船が宇治川に進むという仕組みでした。 宇治川から濠川へ入るときは、水路から水を汲み入れ、閘室の水位を上げて濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。 琵琶湖から流れ出る川が1本だけで、その川が瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えながら大阪湾に注いでいること、そして昔の人はその流れを使って物資や人を運んでいたということがよくわかりました。 資料館とは関係の無い話なのですが、 資料館の近くで2羽のハトが並んでたので見ていると、交尾を始めました。 鳥の交尾って一瞬なんですね。 というか、動物が交尾をする瞬間を生で見たのは初めてだったので、驚きました。

[7] 伏見港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津[1]・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に肥後橋[2]を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。[3]

江戸時代には角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。

明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり[4]、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。

蒸気船による水運は京都市と大阪市などを結ぶ鉄道が開通したあとも運賃が低廉だったことなどから一定の需要があったが、大峯ダム[5]の建設や京阪本線の開通による淀川(宇治川)での水運の衰退とともに港も衰退した[6]。第二次世界大戦後はほとんど使用されず放置されていたが1967年、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定され事業化されたことにより港湾機能を喪失した(但し、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている[7][8])。現在は、公園内に港湾施設の復元模型があるほか、濠川から三栖閘門の周辺は遊歩道が整備され観光用の十石舟が運航している。※観光船については、伏見十石舟を参照。

周辺には京橋・表町・柿ノ木浜・金井戸・北浜・西浜・

[8] 琵琶湖疏水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E7%96%8F%E6%B0%B4

概要[編集]

琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/s[1]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の一つである。

歴史[編集]

開通まで[編集]

京都市は禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた。

第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している。 第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金[2]、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられた。

また、水力発電は当初は計画されなかったが、田邉らがアメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まった

[9] 淀川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

地理[編集]

大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれる。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を「新淀川」と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。従って、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。又、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。更に、神崎川に合流する猪名川も、淀川水系として包括される。

淀川開発史[編集]

為政者の治水・利水[編集]

淀川流域は古来より政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故古来仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり以後河川整備は繰り返されていたが、氾濫も度々起こり、時の白河法皇をして比叡山の僧兵・双六博打(賽の目)と共に鴨川の治水問題が悩みの種となっていた。

豊臣秀吉が晩年伏見に居を移すにあたって、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを直接巨椋池に流れ込む形から現在のような伏見への流れに変えたことであり、このことにより宇治川は伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削し、京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933292370

メモ