広瀬川

広瀬川

[1] 広瀬川 (ひろせがわ)

Webページ

[2] 広瀬川 (宮城県) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%B7%9D_%28%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%29

広瀬川(ひろせがわ)は、宮城県仙台市を流れる名取川水系名取川支流の一級河川である。仙台市のシンボルとして親しまれている川であり、ヒット曲となった『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われている。 中流域では仙台市都心部の西縁から南縁を経て東流するが、都心部が広がる河岸段丘の段丘面と川面との間には数十mの高低差の段丘崖となっている。そのため両岸には自然が多く残されている。初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など、市民が川面や河原まで降りてレジャーを行うことが多い。牛越橋より上流ではカヌーも楽しまれている。仙台七夕花火祭や広瀬川灯ろう流しなど、祭りの会場ともなっている。

[3] 源流から苦地橋, , http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/hirosegawa/hirose1.htm

第1回 広瀬川を歩く 「源流から苦地橋」 目次へ

山形県との県境、関山峠の東側から始まる広瀬川。

私たちが見慣れている広瀬川からは、想像もつかないほどの小さな沢でした。

そこから南東に流れながら沢を集めて水量を増やし、V字型の深い谷を刻んでいきます。

やがて、「新川ライン」「奥新川ライン」で知られる新川川と合流すると、

大小の様々な滝が連なる鳳鳴四十八滝や熊ヶ根橋付近の自然崖など、

広瀬川はその姿を多彩に変えていきます。

広瀬川の呼び名

広瀬川の源流

旧関山街道と番所

坂下境目御番所跡

旧関山隧道殉難碑

旧いずみ橋

作並温泉

湯渡戸橋

相生橋

作並宿御番所跡

新川川

新川川の木流し

旧荒沢鉱山

鳳鳴四十八滝

今井山不動尊

鷹の巣

学川淵(ガッカフチ)

カゴ岩

熊ヶ根橋

熊ヶ根堰

野川

熊ヶ根の糸滝

青下水源地

青下川の木流し

伊達政宗公の川狩り

広瀬川の魚捕り

仙台市の電気と水道の源

赤生木温泉旧町民憩の家

赤生木

1 広瀬川の呼び名

今は広瀬川と言っているが、昔の人達は自分たちの村や部落の前を流れる川は

自分達の部落の名前をつけて呼んでいた。

例えば、「作並川」、「熊ヶ根川」、「愛子川」などというように部落の名前がついている。

これらは、「安永風土記書出」にも出ている。

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2 広瀬川の源流

宮城県と山形県の境界の関山トンネル(国道48号線)の約300mほど手前の左側に

標柱が立っている。その標柱は建設省で立てたものであるが、「名取川水系一級河川

広瀬川上流端」と記されている。

そこが風倉沢と坂下沢との合流点で広瀬川の上流端になっている。

法律で河川の本流を決める条件としては、流域面積の広さ、流量の多さ、

社会的位置などがポイントになる。

この上流端より名取川の合流点(仙台市日辺付近)までが広瀬川で、流路延長

約45kmある。

「広瀬川源流付近」

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3 旧関山街道と番所

弘法山、聖山、文殊山、放山などの地形と落合付近の山(ドンデラ山)などが、

山形路の通行を阻んでいたようだ。また、城の後ろから攻め入られてはたまらないから

青葉城の背後地であったことも交通が少なかった理由になるだろう。

したがって、七北田川や名取川の流域に比べると交通網の整備はだいぶ遅れていた

ようで、二口峠や関山峠に行く際には七北田方面から宮城地区に入っていたものと

[4] 道路レポート 天野橋と天野新道, , http://yamaiga.com/road/amano/main.html

【位置(マピオン)】

東北最大の都市である仙台の中心部を流れる広瀬川に沿って、関山街道という奥羽山脈越えの重要な道が延びている。現在の国道48号である。

熊ヶ根(くまがね)は関山街道の宿場町として発展した集落で、仙台と国境関山峠のほぼ中間(仙台市中心部から約20km)にある。

この辺りの地形の特徴は、典型的な河岸段丘にある。

広瀬川とその支流である大倉川および青下川の水面が浸食基準面であるが、これら河川により四分されたほぼ同じ標高を持った段丘面上に、熊ヶ根、萱場、苦地、道半などの集落が点在する。集落を隔てる段丘崖の高さは、おおよそ50mもある。

ある人は、平成18(2006)年にこの地の地形を、“ 杜の都のグランドキャニオン ”と名付けている。

さて、こうした地形的特徴を持った場所は、土木技術が貧弱な時代においては特に交通の難所であった。

最低でも、幅100m、深さ50m程度の峡谷を一跨ぎ出来るような架橋技術を持つことで、初めて我々は、移動のたびに段丘崖を上り下りする苦労から解放されたのである。

この地図中に見える、広瀬川を渡る熊ヶ根橋や、青下川を渡る青下橋は、共に現代の技術で架けられた巨大な橋である。

そして、熊ヶ根橋が架けられる前の旧国道のルート(野川橋)も、地図に描かれている。

だが、青下橋の旧道についてはどうだろうか。

それが、今回紹介する 天野橋 である。

今ある青下橋は2代目で、初代の青下橋( 橋台が残っている )は昭和33(1958)年に架けられた。

青下川を段丘面から段丘面へと初めて一跨ぎで渡った初代青下橋が出来る以前に、天野橋が使われていた。

最新の地理院地図でも、天野橋がある位置には破線の道が描かれているが、橋の記号は無く、道自体も橋の東側で途切れて描かれている。

なお、天野橋の存在を私が知るきっかけとなったのは、平成20(2008)年8月に宮城県在住の 盃氏 より寄せられた、次のような情報提供メールであった。

旧青下橋の下流の現青下橋。その更に下流、広瀬川との合流点に廃橋が架かっており、その先は廃道が崖っぷちを登っております。

この廃道は、昔(戦前?)は車が走ったそうです!

廃橋は、確かコンクリ製で、小さいものでしたが、歩いて渡るのも気が引けるくらいの状態だった気がします。この12年間未確認です。

[6] , , http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sekiyamakaidou.html

仙台〜山形間は、東北横断自動車道の開通によって1時間15分という通勤並の時間となり、両市を核とした二つの県の地域で育った物心両面の交流が盛んとなり、気軽に買い物も出来るという一つの文化圏となっています。

人や物の交流の運び手は、江戸時代は人や馬でした。明治になると馬車の時代となりますが期間は短く、すぐ鉄道や自動車の時代となり、現在に至っています。

馬車の時代は明治9年の明治天皇東北巡幸に始まり、明治15年には関山街道にトンネルが開通し車道が完成します。笹谷街道も明治26年には山形県側が、同28年には宮城県側の改修が進み馬車の往来が可能となりました。

街道の名称も太政官布告によって最上街道が羽前街道と変えられました。余談ですが、関山街道は地図を見ると同じ路線を山形県側が関山街道、宮城県側が作並街道となっています。

仙台・山形をを結ぶ関山・二口・笹谷の三街道は三位一体で三者が有機的関連を持ちながら両城下を結んでいました。関山街道と二口街道の間は、東から茂庭道、仙台街道、板颪道、大雲寺道があり、板颪道(イタオロシミチ)は秋保の長袋から笹谷街道の川崎に通じていました。二つ目は、定義(ジョウゲ)道を含めて街道沿いに85の道標碑が立っています。ずいぶん人通りが多かったことを石碑は語りかけてくれます。

江戸時代の関山街道は仙台から奥羽山脈の関山峠(標高640�b)を越えて天童市で羽州街道と合流しており、ほぼ現在の国道48号と重なっています。

二口街道には、欽明天皇が天然痘の治療に秋保温泉の湯を用いたとか、平重盛(小松殿)の後裔基盛が長袋に居を構え秋保氏を名乗った、或いは平家落人伝説があります。また板碑も二口街道沿いに確認されていますが、関山街道の熊ヶ根以北にはそれらしい伝説・史実はないようです。

ここで試論として、東北大学植物園に残る「最上古街道」の延長を板碑でたどってみようと思います。

『仙台市史 特別編5 板碑』の「3 太白区秋保町湯元字青木 岩谷堂板碑群」(�E)について「この地は岩谷堂山とも呼ばれて、慈覚大師が立石寺を開く前に精舎を建てたが、領主のいやがらせにあって立ち去ったという伝説を伝える岩窟が山の中腹にある」と記されています。

《板碑でたどる最上への道》

この板碑の東の朱点線をを図でたどると弥勒寺にある元亨碑(�D)、さらに郷六館跡(�B)の建武

[7] 愛宕山の横穴墓群と水力発電所跡 : ペンギンの足跡Ⅱ, , http://ciao66.exblog.jp/17322529

ちょっと曇り空の散歩です・・・いつもと違うところへ。 広瀬川を渡って来ました。さてここは何処でしょう? 広瀬河畔の「愛宕山横穴墓群」という遺跡です。

[8] 広瀬川の記憶vol.20, , http://www.hirosegawa-net.com/kioku/20_2.html

■天野橋をバスで渡って定義へお参り

付近の地形の説明をしておこう。熊ケ根の裾を深い峡谷をつくりながら東流する広瀬川は、道半の北側で大きく蛇行する。そこに北から青下川、わずか下流に大倉川が流れ込む。聞けば、道半は、仙台市が政令市になるまで宮城町ではなく秋保町だったのだそうだ。確かに、地図を広げ、熊ケ根橋がつくられ国道48号が開通する以前を想像すると、地区の北側は広瀬川の崖にはばまれ、南の秋保町と一体だったことに納得がいく。

道半でクリーニング店を営む佐藤いせさんが、おもしろい話をしてくれた。「うちの前にバス停があって、 定義さん にお参りのバスが走ったの。野川橋渡って、天野橋渡って、崖上がってね」。

はてさて、天野橋とは─。住宅地図で見ると、青下川の広瀬川との合流地点に小さな橋が描かれている。名前は記されていないこの橋が天野橋だろうか。

杉の林の中につけられた轍(わだち)の跡をたどっていくと、ぼうぼうと草の生い茂る中に、朽ちかけたコンクリート橋が姿をあらわした。草は橋の上を覆い、もはや欄干も、橋桁も崩れ落ちそうだ。斜めになった欄干に「昭和十一年四月竣工」の文字が読み取れた。いつ頃まで人が行き来したのだろう。

資料にあたると、天野橋は芋沢出身の天野政吉なる人物が私財を投じて架け、

昭和11(1936)年から14年まで、陸前白沢駅間と定義間にバスを運行させたとあった。対岸の崖はバスでは困難で、乗客は徒歩で上がったらしい。

天野橋と運行したバスのことは、道半や熊ケ根の人たちに、まだ記憶されていた。「ボンネット型の木炭バスだったようだね」と武田さん。「何でも材木を運んだりするのに車を走らせたっていう話じゃないの」と高橋さん。そして、「私は昭和24年に、大倉からトラックに乗せられて天野橋と野川橋を渡って道半に嫁にきたんだよ」と太田さん。天野橋は、昭和36年に 大倉ダム ができて道が整備されるまで、大倉と白沢駅を結ぶ最短ルートだったのだ。

白沢駅前には、「天野床屋」と看板を掲げる理髪店がある。訪ねてみると、果たして、橋を架けた天野さんのご子孫だった。

天野礼子さんが「天野政吉は、父の兄。自動車会社を経営し、材木商もしてて山から木を伐り出したりしてたみたいです」と話してくださる。急坂で難儀した話になると、ちょうど散髪を終えたばかりの高橋美智夫さんが「おっきな石にワイヤー掛けて、い

[9] 愛宕山 (仙台市) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1_%28%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%29

愛宕山(あたごやま)は、宮城県仙台市太白区向山にある山である。山の名は山上にある愛宕神社に由来する。かつては向山(むかいやま)とも呼ばれた。標高78m。

地理 [編集]

愛宕山は、仙台市都心部の南、広瀬川をはさんで右岸にあり、川と平行に東西に尾根を伸ばす。この東西方向で傾斜が比較的緩いが、西側は広瀬川の曲流部の外側であるため、浸食を受けて傾斜が急であり、北側は広瀬川に曲流部の内側であるが河岸段丘の段丘崖となっているため傾斜が急である。段丘崖下には段丘面があり、人家がある。江戸時代には、北山五山の寺社等と並んで庶民が仙台城下町を見下ろせる場所であったが、現代では都心部の高層ビルで地平線が区切られ、ビル街の北までは見渡せない[1]。

山の東端は、広瀬河畔通りを作ったときに切り取られた。この道路は、北に繋がる愛宕大橋を渡って都心部に通じる。山上の東側に愛宕神社があり、東から石段を登る参道がある。他に、車が登れる坂道が南側から回り込むようにつけられている。山上の西側には、大満寺(虚空蔵尊十二支霊場)という寺院があり、山の南から登る。

大窪谷地という谷をはさんで南に大年寺山がある。

歴史 [編集]

愛宕山の東の麓には、小さな円墳が2つ、愛宕下切通上古墳と大窪谷地古墳があった。北斜面と南東斜面には、7世紀に横穴墓が多数作られ、愛宕山横穴墓群という。急斜面の横から、岩を削って掘り込み、内部に1メートルから3メートルほどの空間を作り、次々に人を埋葬したものらしい。

中世まで、大窪谷地を通って当時は荒れ野だった今の仙台市都心部を通過する道がよく使われた。16世紀前半に経塚が築かれ、1931年(昭和6年)に発掘されて愛宕山経塚と呼ばれた。

江戸時代に愛宕神社が山上に建てられ、経ヶ峯から虚空蔵堂が移転してきた。愛宕山は奥州街道から外れていたが、嘉永5年(1852年)に立ち寄った吉田松陰など、仙台を訪れるついでに登る人も多かった[2]。ここから仙台の町が展望できたためである。現代の観光客は青葉山から仙台市街を見下ろすが、そこは仙台城本丸であるから、江戸時代に一般人が立ち寄ることはできなかった。

5月の端午の節句には、町に林立する幟旗を眺めるために登る人がいた[3]。仙台藩ではこの日に武家が幟を上げることを禁じていたので、幟は町人町にそって列をなした。茶店で売る土器の平皿を山上から広瀬川に向

[10] 隧道レポート 仙台市愛宕山の謎の穴, , http://yamaiga.com/tunnel/atago/main.html

人工120万を擁し、東北唯一の大都市といわれる仙台。

この都心である仙台駅からわずか1kmという地点に、「謎の穴あり」 という情報が飛び込んできた。

流石に人口綢密の地だけあって、この穴に関する目撃証言をネット上でいくつか拾うことが出来た。

しかしそれらはみな心霊スポットとしての情報ばかりであった。

それら“心霊情報”が語るところによれば、穴の正体は

1.戦時中の高射砲の基地

2.亜炭鉱山

3.藩政時代の抜け穴

4.防空壕 …etc

など、多彩である。

また、それら情報の出所を踏まえれば当然とはいえ、一様に目撃者たちは「気持ち悪かった」「なにかいる」などと評しており、おそらくは都市のエアポケット的な地底空間なのだろうと思われた。

ただし、それらの情報は最新のものでも2003年頃までで、都市の中心部という立地を考えれば、現在も口をあけたままに放置されているとは考えにくいのではないか。

しかし、実際には、その不安は良い意味で裏切られた。

ともかく、謎の穴は実在したので、ここに報告しよう。

行政機能や商業の集積著しい東部と、住宅や文教機能に特化した西部。

仙台市の特徴的なこの2つの都市シーンを分け隔てるのが、市街を貫流する広瀬川である。

穴の目撃情報によれば、その穴はこの広瀬川の河川敷の一角、愛宕大橋の近くにあるという。

だが、それ以上の情報を得られなかった私は、実際に捜索および調査をするべく7月28日、仙台市へと向かった。

写真は、愛宕大橋から200mほど上流の住宅地から見た広瀬川の様子。

対岸のビル群の奥には仙台駅など、市の中心部がある。

一方、此岸には愛宕山という古くからの参詣の地である小山があって、その景観は両岸相対するものがある。

穴があるのは、地形的におそらく此方の岸であろう。

そう踏んで、この辺りから捜索を開始した。

時刻は午前7時少し前である。

今回、山行が合調隊に志願した新参加者が一名。

東京都から参加の、トリさんである。

先日秋田で行った山行がのオフ会にも来てくれたのだが、実際に合同調査に参加するのはこれが初めてとなる。

彼女はまだ経験こそ浅いものの、関東で独自の廃道探索を行っている女オブローダーである。

本人曰く、「廃道が好き」とのこと。

私と細田と、このトリ氏の3人で、この探索は行われた。

[15] 青葉電気工業発電所跡探訪: Sakazuki's Note 2, , http://sakazuki.way-nifty.com/sakazukis_note/2012/02/post-ec1c.html

1月3日のこと。昼過ぎに仕事を終えて仙台愛宕神社へお参り。その後せっかくだからと某所へ足を運ぶ。広瀬川河畔の崖に並ぶ横穴墓をいくつか眺めつつ、本命の探訪先へと足を踏み入れる。

青葉電気工業発電所(仙台愛宕下水力発電所)跡。大正9年(1920年)に建設されたもので出力470Wにて翌年開業、広瀬川大橋下流から愛宕にかけての川の蛇行範囲右岸の山(霊屋下地域)をショートカットするように隧道が掘られ、そこを流す水流により発電を行った施設の名残りである。昭和4年(1929年)頃には操業を停止していたとみられている。ここに隣接していた愛宕プールは発電所から導水していたとされ、昭和18年(1943年)まで存在した。

最近はこの水力発電所跡について知る人も少なくなり、防空壕の跡だとか高射砲台だったんだとか、亜炭鉱山だったなどの噂?が普通に聞こえてくる。そんな水力発電所跡地、隧道の吐水側である愛宕付近を今回は探訪。

で、跡地を訪れた第一印象としては、噂もまんざら出鱈目に出ている訳じゃないんだなぁという印象。つまり、高射砲台だったと言われればそういう気にもなるし、防空壕だったと言われれば鉄扉もあり立派で要人なんかが利用したのだろうかとさえ思えてきたりもする。

自然の崖から出っ張るように築かれたコンクリートの壁に残る梯子。

割と高所に開いている直角に接したアーチ開口部。その周辺にはコンクリートの構造物が自然の崖と一体を成すように作り上げられている。

片方が朽ち落ちた鉄扉。広瀬川の流れの位置関係としては、右が上流側で左が下流側。川は撮影している背後を流れている。ここで水力発電所用の隧道が終わっていることになる。

ということで…鉄扉から内部へ入る。

鉄扉から真っ直ぐに見た内部。コンクリートで整えられた内壁が面を構成しているが、左の壁からは突き出た鉄骨が存在したり、右上には朽ちた鉄筋入りのコンクリ柱の名残があったりと、随分と時間を経てきている雰囲気が強い。

チラリと左側を見る。高所に開いていた直角隣接アーチ開口部は左上に位置。天面は不思議な曲線のつながりで構成されている。床面は一段高くなっているようだ。

一歩踏み込んで右側をチラリ見。得体の知れない四角いタンクらしきものが置かれている。そのタンクには“WHO DARES WINS”とステンシルでのスプレー文字が記されている。「挑む者のみ勝利する」

[16] 仙台愛宕下水力発電所跡(仙台愛宕下水力発電所導水トンネル) - 宮城・仙台 -義蜂ナマズの画像ブログ- - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/gibachinamazu/8167554.html

2012年1月3日撮影

宮城県仙台市太白区越路

EOS 50D + SIGMA 10-20mm F3.5 EX DC HSM

そこには、山肌から迫り出すコンクリ壁と、ポッカリ開いた穴と、朽ち果てた鉄扉があった。仙台愛宕下水力発電所跡。または仙台愛宕下水力発電所導水トンネルと呼ばれる場所だ。

仙台電気工業株式会社が大正9年(1920年)に建設されたもので出力470Wにて翌年開業、広瀬川大橋下流から愛宕にかけての川の蛇行範囲右岸の山(霊屋下地域)をショートカットするように隧道が掘られ、そこを流す水流により発電を行った施設の名残りである。昭和4年(1929年)頃には操業を停止していたとみられている。ここに隣接していた愛宕プールは発電所から導水していたとされ、昭和18年(1943年)まで存在した。

これまでUPしてきた数々の画像は、発電所へ水を流していた隧道の末端内部であり、その全景が上画像ということになる。内部にあったダブルアーチは水門であり、アーチの左右の壁にはスリットが設けられていたりする。頭上に開いたアーチ状の開口部は隧道内部を流れてきた浮遊ゴミ等の除去を行う作業口だったと思われる。水門付近の地下空間は存在意図が定かではないものの、発電所時代の何かの名残りだと思われるが、昔は近くに愛宕プールがあり、そこへ水を供給していたという話なので、そのための小規模な水路が地下化していた可能性もある。内部奥のコンクリブロック壁は水路を塞ぐように作られているため明らかに発電所閉所後に転用された時代に設けられたものであるが、何に使われたのかは分からない。また鉄扉は隧道内の水が溢れてしまう位置にあるため、発電所時代は水路との間に隔壁が存在したか、転用後に作られたものだと思われる。

[17] ミニレポ第221回 国道48号旧道 湯渡戸橋, , http://yamaiga.com/mini/221/main.html

【周辺図(マピオン)】

仙台駅から西へ26kmほど広瀬川をさかのぼった奥羽山脈のただ中に、作並温泉がある。

そこは仙台と山形を結ぶ国道48号関山街道の通路にあたり、東北地方の在住者であれば一度は通った事があるのではないかと思う程度には、交通量が多い。

もちろん、私も過去何度となく自動車、そして自転車という手段で通行してきた道である。

仙台側からこの道を辿るとき、作並温泉の温泉街に入る直前で、 湯渡戸(ゆわたど)橋 という、比較的大きな橋を渡る。

名前からして温泉地の玄関口に相応しい感じを受ける好ましいものであるが、この橋には現在ほぼ使われていない旧橋が存在する。

しかもそれは旧道化して久しいにも拘わらず、未だに地理院地図に描かれ続けている。(前後の道は書かれていないが)

今回紹介するのは、この 湯渡戸橋の旧橋 である。

私は平成17(2005)年に一度探索しており、今回は11年ぶりの再訪であったが、レポートにするのは始めてだ。

2016/5/29 5:32 【現在地】

ここは仙台市青葉区作並の湯渡戸橋北詰めで、奥が仙台市方面である。

目の前にあるのが現在使われている湯渡戸橋で、記録によると 昭和28(1953)年の竣工 だから、これが旧橋でも何ら不思議でないくらい年季が入っているのだが、今もバリバリ働いていて、外見的にも古びた感じをまず与えない、希有な橋である。

本橋には、直接と間接の両面から古さを滲ませやすい親柱や銘板が存在しないことも、古さを感じさせない大きな理由であり、教えられなければ昭和28(1953)年の古橋と知らずに利用している人が大半だと思う。

この湯渡戸橋の歩道から広瀬川を見下ろすと、漏れなく旧橋を発見できる。

←これが、 旧湯渡戸橋 だ。

現橋の僅か30mほど下流に架かっているが、川面からの高さは段違いに低い。

そのため、歩道から下を覗かねば見つける事は出来ず、車で毎日のように橋を通行していても、この旧橋の存在を知らなかった人がいるかもしれない。

この高さの違いは、現橋が橋の前後で少しの上り下りもせず、直線的に河岸段丘の面同士を結んでいるのに対して、旧橋は深い渓谷となった広瀬川のかなり低い位置にまで入り込んでから渡っていることによる。

昭和28(1953)年竣工の湯渡戸橋よりもさらに古い旧橋 である。

それだけで、ほ

[18] 東北本線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%9C%AC%E7%B7%9A

東北本線(とうほくほんせん)は、東京都千代田区の東京駅から岩手県盛岡市の盛岡駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。

首都圏における日暮里駅 - 田端駅 - 赤羽駅間(電車線)、日暮里駅 - 尾久駅 - 赤羽駅間(中・長距離列車線)、赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間(埼京線の一部)、田端駅 - 北王子駅間(通称北王子線)、仙台近郊における長町駅 - 東仙台駅間(通称宮城野貨物線)、岩切駅 - 利府駅間(通称利府線)、また東北新幹線も東北本線の一部区間であり、これらの正式な線路名称は東北本線である[1]。現在、北王子線は日本貨物鉄道(JR貨物)の路線である[1][2]。

東北本線の線路名称上の起点は東京駅であり、同駅は1991年以来東北新幹線の起点ともなっているが、旅客案内上や時刻表などで「東北本線」と呼ばれている中・長距離旅客列車は長年にわたり、東京都台東区の上野駅を起点として運行されており(東北本線の起点を参照)、東京駅 - 上野駅間の列車は電車線を走行する東京近郊の近距離電車(運転系統としての中央線・山手線・京浜東北線)のみとなっている[1]。

以降、本項目では在来線としての東北本線について記す。新幹線については「東北新幹線」などの新幹線路線記事を参照。

概要 [編集]

東北本線は、もともと日本鉄道が建設した路線で、上野駅から青森駅までの線路と、上野駅と秋葉原駅間を短絡する貨物線の線路からなる、日本最長の営業キロを持つ路線であった。東京と青森の間を、大宮・宇都宮・郡山・福島・仙台・一関・盛岡・八戸を経由して結んでおり、関東地方内陸部と東北地方内陸部を縦断して結ぶ路線であった。途中の沿岸区間は、岩沼 - 松島と八戸以北である。

1891年(明治24年)に全線開通、その後1925年(大正14年)の山手線環状運転開始時に敷設された東京駅 - 秋葉原駅間の電車線も東北本線に組み込まれ、営業キロが739.2km となった。太平洋戦争終結後の高度経済成長期には長距離の特急・急行列車が大幅増発されたが、1982年(昭和57年)に東北新幹線の大宮駅 - 盛岡駅間が開業すると、長距離列車は新幹線経由での運行に移行し、並行する東北本線在来線列車は中距離列車に置き換えられた。2002年(平成14年)12月1日には同新幹線の盛岡駅 - 八戸駅間が開業、2010

[19] 斉勝川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E5%8B%9D%E5%B7%9D

斉勝川(さいかちがわ)は、宮城県仙台市青葉区を流れる一級河川。名取川水系広瀬川の支流である。名称はサイカチの木に由来する。山鳥川ともいう。

地理 [編集]

仙台市都心部より西方に位置する愛子盆地内の宮城県仙台市青葉区上愛子地区南西の蕃山丘陵に源を発し東に向かって流れる。

いくつかの流れが2本にまとまりサイカチ沼に注ぎ、さらに細く短い水路で東の月山池につながる。いずれも20世紀前半に川を堰き止めて作った溜め池である。月山池の東から2本のトンネルで堤をくぐり、蛇行しながら600メートルほど東に流れて広瀬川の河岸段丘に入り、下愛子地区を流れる。錦ヶ丘の住宅団地の北で南からくる谷津川を合わせ、栗生地区と落合地区の境を流れ、折立地区の手前で広瀬川に合流する。

上流では丘陵地でV字谷を形成し、途中の池二つを抜けると河岸段丘崖下の際を流れる。河岸段丘面は、農地または市街地であるが、近年、減反政策の影響で農地指定が解除され、市街地化が急速に進んでいる。

支流 [編集]

谷津川

橋梁 [編集]

芦見橋

錦ヶ丘橋 - 宮城県道132号秋保温泉愛子線

南舘橋

国道48号(愛子バイパス)

本木橋

栗生新橋

新沢田橋 - 宮城県道135号落合停車場線

沢田橋

落合橋

山鳥橋 - 作並街道(旧国道48号)

[20] ミニレポ第221回 国道48号旧道 湯渡戸橋, , http://yamaiga.com/mini/221/main2.html

2016/5/29 5:48 【現在地】

アーチの美しさに魅せられ、渡るよりも先に谷底に降りて眺めたばかりか、川の徒渉までやった。

図らずも、橋が無くても対岸へ行けることを証明してみせたわけで、その点では、何となく橋に申し訳ない気持ちになった。

が、それはもう済んだことだ。

今から改めて橋を渡って対岸へ向かうこととしよう。

橋を含む一連の旧道を走破するまでが、このミニ探索である。

旧 湯渡戸橋の南側橋頭に立って、橋上を望む。

ちょうど足元から先が橋なのであるが、手前半分ほどは、まるで森のようである。

仙台市と言えば、杜(森)の都というのがよく知られた愛称だが、そこにある橋の上まで森とは、なかなかに洒落ているではないか。

コンクリートで鋪装された橋の上が、人為的な客土もなく、これだけ綺麗に緑化されているのは、ひとえに樹木の作用であろう。

毎年秋に降り積もる落ち葉が、長い時間をかけて土となり、この緑を育んだのだ。

訪れる人もほとんどないようで、橋上の緑に踏み跡は見られない(11年前にはあったのだが)。それでも浅い草むらなので、見通しも悪くないし快適に進む事が出来た。

橋の長さはおおよそ30mだが、真ん中辺りまで来てようやく本来の路面が露出していた。

隣にある現橋から見下ろした時、よく見えていたのがこの辺りだ。

上から現橋を行く車の音が聞こえるが、それを除けば静かな環境で、川風が気持ちいい。

ただ、何となく見下ろされているような気持ち悪さがあるのは、現橋の存在だけでなく、正面の高層ホテルのせいだ…。

右の画像は、11年前の同じ場所。季節は1週間ほど右の画像の方が夏寄りだが、緑がより濃いのは左の画像だ。生長してる〜。

こんなビルに見下ろされながら、落ち着いて探索出来るわけがない〜(涙)。

また、温泉ホテルということもあって、その気は無いのにうっかり露天風呂を覗いちゃったりするんじゃないかという不安も、あった。

まあ、実際にはその危険は無いようだが。

それはそうと、11年前の写真と比較すると、今回の方が建物が綺麗である。

良く見ると、建物の配色が変わっている。最近、塗装し直されたようである。

読者さんの情報によれば、このホテル(グリーングリーン)は40年くらい前に建築されたが、近年一度倒産し、リニューアルされたらしい。

ところで、もし

[21] 広瀬川, , http://www4.atpages.jp/jinkosatou/z000b58q9.htm
[22] イントロダクション クノッソス) | doukutu1234567の2010年06月07日の3番目の記事 - 楽天ブログ(Blog), , http://plaza.rakuten.co.jp/doukutu1234567/diary/201006070002/

OOOにあった、MLMの会社の施設は3回訪問した。

(※「MLM」 マルチ商法)

訪問するといつもどこかの内装替えの工事をしていた。

家賃500万円というビルをひとつ、まるごと借り切っていたのが、FX詐欺をしていたと後に報道されたMLMの会社「アルファ」だった。

入り口は指紋照合のシステムになっていて、監視カメラが睨んでいる。

2階は豪華なクラブのようなつくりだった。「アルファ」の入る前、2002年5月までは目を引く2、3階、4階までの吹き抜けをもつ「クノッソス」というライブが出来るスポーツバーだった。

その後、カラオケ屋になる。現在もビル壁面には「カラオケ」の文字が残っている。

当時そこを幹部達はそのまま「クノッソス」と呼んでいた。

「クノッソス」とは、ミノタウロス伝説でも知られている、ギリシャのクレタ島にある青銅時代最大の遺跡。ミノア文明下で、儀式や政治の中心であったと考えられている。ここは「アルファ」の本社は別にあるが、実際の重大なことが決められる場所だった。

エレベーターは4階までしかなく、5階に「アルファ」の社長(CEOと呼ばれていた)の花田の豪華な部屋があった。

林太郎さんが通された2階は傍らにスタンドバー20席、そのとなりに、大きなテーブルがありそこに20席。フロアには4人掛のテーブルが20個あった。その2階から5階までが大きな吹き抜けになっていて、階上はぐるりと回廊になっていて、そのフロアを覗くことができた。ムード音楽がひと晩中施設中に流され、廊下もだれもいなそうな部屋も含め、部屋と言う部屋の灯りもずっとつきっぱなしだった。スレンダーで長身の美女たちがいれば、まるでカジノの豪華なホテル。ところが、人がその巨大な施設のなかにせいぜい10人という感じの、ひと気を感じない施設だった。

監視カメラだけが随所にみかけられた。

4階の林太郎さんが泊った部屋は無駄に長い部屋で長さが25メートルもある部屋だった。ウォーターベッドもあり、まるでスイートルームだった。他にも、1室に3つもダブルベッドのある部屋があった。

階下を見下ろすと、2人のイスラエル人のガードマンと食事をしたらしい跡が、大きなテーブルの上に残されていた。

2年ぶりに、広瀬川の河畔にある、あの洞窟に行く。

入口が青いトタンで閉めらていた。山の方から回ると、まだ、中を覗くこ

[24] 愛宕山横穴墓群 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93%E7%BE%A4

愛宕山横穴墓群(あたごやまよこあなぼぐん)は、日本の宮城県仙台市太白区にある古墳時代の多数の横穴墓で、愛宕山の中腹に作られた。今も横穴として口を開いているものもあるが、土中から発掘されたもの、調査されないまま破壊されたものもあり、総数は不明である。そのうちの一つは、赤い顔料で玄室を彩った装飾墓であった。

遺跡の概要 [編集]

愛宕山は、仙台平野の西の丘陵から平野に突き出る低い山で、広瀬川沿いにある。東西に長い山の北斜面と南斜面東側に、多数の横穴墓があり、これを愛宕山横穴墓群という。大窪谷地をはさんで南側の大年寺山にも横穴があり、それは大年寺山横穴墓群という。大年寺山には他にも二ツ沢横穴墓群、茂ヶ崎横穴墓群があり、広瀬河畔の宗禅寺横穴墓群もあわせて向山横穴墓群と総称している。横穴が作られたのは7世紀後半から8世紀初めとみられる。その頃陸奥国の国府が置かれた郡山遺跡は約2キロメートル南東にあり、この国府や周辺の集落に住んだ人々が作ったのではないかと考えられている。

1938年(昭和13年)には、大年寺山の北側と愛宕山の南北にあわせて34個が見つかっており、加えて2、3年のうちに破壊されたものも10以上あったと伝えられる。付図で愛宕山の北に3、東に3、東南に20、他の種類の穴または破壊された穴が9みてとれる。この調査で報告された横穴の位置は今ではわからなくなっているが、宅地造成や道路開削によって破壊され、数や位置が不明のまま失われた横穴が多いことはわかる。[1]

1973年(昭和48年)以降に調査がなされたのは南斜面の穴で、今までに28基が確認されている。別に、南東斜面そばに、赤い壁画がある横穴が1つだけ見つかっている。北側の発掘調査はなされていない。

穴は斜面の中腹に作られ、幅1メートル程の羨道から入り、やや狭く作られた玄門を通って玄室に至る。玄門がない横穴もある。羨道の長さは不明である。玄室は方形か台形で、隅が丸くなったものもあり、ほとんどの横穴は一辺が1から3メートルの範囲におさまる。一つだけ、床面の半分に石を敷いた穴が見つかっている。

概して遺存状態が悪いので、副葬品の全貌はわからないが、これまでに鉄の刀、鉄の鏃、須恵器、土師器、ガラス玉が見つかっている。

愛宕山装飾横穴古墳 [編集]

開口している横穴に近いところに、土中に埋もれて装飾横穴古墳がある。羨道は長さ2

[25] 3276koti, , http://www.ton-press.jp/article/327/3276koti.html

こちら仙台まる秘情報局Report1:向山地下に眠るナゾのトンネル

327号6面・大学

ある晴れた日の昼下がり。その日も局員は、いつものように惰眠を貪っていた。そんな平和を、一本の電話が打ち壊した。局員のタカハシがのっそりと起き上がり、不快な面持ちで受話器をとった。電話は、局員のスズキからのものである。

「あ、もしもし、タカハシさんですか?え、ボスは寝てるって?相変わらずですねぇ。あ、そうそう、噂によるとですね、向山の地下にトンネルらしき長い穴があるらしいんですよ。そんな話聞いたこともないし、向山住人の僕としてはぜひ調査してみたいのですが…」とのことである。電話を受けたタカハシは、深い眠りの中にある局長のナカムラ、通称ボスを叩き起こし、スズキからの電話の内容を伝える。

局内では無類の低血圧を誇るナカムラは、少々苛立ちながら、しかしまんざら興味が無いでもないように、タカハシの話に耳を傾ける。「なるほどな…。いつもは使えないスズキだが、今回の話は面白そうだな」そう言うと、ナカムラは早速調査部隊を結成し、調査に乗り出した。

そうそう、我々について説明するのをすっかり忘れていた。我々「こちら仙台マル秘情報局」は、仙台の穴場スポットを、実際にその地に赴いて調査し、読者の皆さんに周知することを使命とする組織で、新聞部編集長の下に今年六月をもってめでたく結成された。

…と、我々の説明はこのくらいにして、話の本筋に戻ろう。

調査部隊のメンバーは、ナカムラ、タカハシ、スズキの三人である。というか、これで局員はすべてであるというのは絶対に秘密だ。この三人のうち、ナカムラとスズキは広瀬川沿いで聞き取り調査を行い、タカハシは資料室で調べることにした。

ナカムラとスズキが聞き取り調査を始めて二時間ほど経ち、スズキが「もう帰りたい」と漏らし始めた頃、突然ナカムラの携帯が鳴った。

「ボ、ボ、ボ、ボス。つ、ついにそのト、ト、トンネルのものと思われる情報をにゅ、にゅ、入手しました。」興奮のあまり、電話口のタカハシは極度にドモっている。

タカハシの話によるとこうだ。そのトンネルはとても古く、使用目的は不明であるが、追廻から愛宕神社周辺にまで伸びる巨大なものである。追廻側の入り口は封鎖されているが、愛宕神社側の入り口は今でも開いている可能性がある、ということであった。

すぐさまナカムラとスズキは愛宕神

竜ノ口橋

竜ノ口橋

籠岩

籠岩

履歴

[27] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933276296

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