住吉城跡

住吉城跡

[1] 住吉城跡

Webページ

[2] 相模三浦住吉城跡訪問(逗子・葉山), , http://4travel.jp/domestic/area/kanto/kanagawa/yokosuka/zushi/travelogue/10767614/

旅行時期 : 

2012/10/20 - 2012/10/20

(約6ヶ月前・1日間)

エリア : 

神奈川>横須賀・三浦半島>逗子・葉山

テーマ : 

歴史・文化・芸術

投稿日 : 

2013/04/21(1ヶ月以内)

写真 : 

18枚

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JR逗子駅からバスで約20分、小坪下車周辺住民に尋ねながらどうにか住吉城跡にたどり着きました。

住吉城跡は城跡と言うよりも砦といったほうが似つかわしく、城郭と言われるほど広さはなく、村木海岸に沿った正覚寺に迫った崖の一部という印象でした。

城跡には神社というよりも祀堂というべき建物があり、その右柱の下には手製の小さめの案内板が置かれており、此れを見て住吉城跡である事が判ります。

永正7年(1512)籠もる岡崎城から落延びた三浦義同らは一時的に当城跡に逃れたようです。さすがに本拠地ですから平安時代末期から栄えた三浦一族が各地に造った館や砦に関して把握していた訳ですから当城の防御性も多分承知だったことでしょう

やがて小田原北条軍の攻撃を受けるも持ち堪える事が適わず、義同親子は直ちに南の新井城へ移動、弟の義教は潔く小田原北条軍と戦うわけですが多勢に無勢のため住吉城を捨て延命寺に退去するも部下とともに自刃します。

[3] 「住吉城址」の一部、’ ぼんばたけ ’ 地域周辺。 _ 逗子市:Pictures Remain The Same:So-netブログ, , http://mitch1.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01-2

「住吉城址」の一部、’ ぼんばたけ ’ 地域周辺。 _ 神奈川県逗子市 12.12.23.” 「鶴岡八幡宮~若宮大路~材木座海岸沿い~住吉城址周辺~古道の名残り~逗子」ウォーキング ”から抜粋編集したが、当日は予定のメイン・コースから一旦逸れての寄り道なので当事者同士がわかれば良いだけのページ。.” 逗子市/鎌倉市 「住吉城址」周辺を歩く 12.12.23 ” からの続き .9-01) 「住吉城址」の一部、’ ぼんばたけ ’ 地域から「逗子マリーナ」方向を見おろす。 _ 10:50am頃~.9-02) 写真9-02)柵の間から撮った。.9-03) 遠近感と高低が解らない写真だが、或る風致破壊集合住宅建設に伴い? 放置されていたのを再整備された古道。「海前寺」付近へ通じる道。.

[4] 住吉城 - 風雅庵の日々, , http://blog.goo.ne.jp/fuga_an/e/759ffd76e8f46d08cdad3871a60266a0

小坪の町の山際、海前寺から神明宮への途中にある

山道を登って行くと、望洋邸というマンションの横に出ます

警戒厳重ですので、通り過ぎて「ぼんばた橋」を渡って、

振り返ると、「ぼんばたけ」の向こうに望洋邸がそびえてます。

車道に出るので小坪トンネルの方へ歩きます

134号線の飯島トンネルです。これからあのトンネルの上を回り込みます。

トンネルの上の扇山を主峰とする丘には住吉城があったそうです

住吉城址実測図です(「逗子市住吉城址」より)。先ほどの「ぼんばたけ」に家臣の邸、

「げんじヶ谷」に住吉城(城主の館?)があったと言われてます。

住吉隧道、このトンネルをくぐると正覚寺、

記主良忠上人が鎌倉に来て住み着いた悟真寺です

正覚寺の裏山には住吉社があり、住吉城址の板が置いてありました。

戦国時代の初め、三浦道寸と弟の道香がこの山城にこもって、

北条早雲の軍勢と戦いました。道寸と道香兄弟の奮戦もむなしく

戦いに敗れ、道寸は三浦の新井城へ逃れ、道香は逗子の延命寺境内で、

家来たちと自害したと伝えられています。

住吉城は山城ですから、近世の城のように天守閣も石垣もありません。

自然の地形をうまく利用して、攻め寄せる敵を防いだものと思われます。

祠の横にトンネルがあります。が、出口は封鎖のようです。

鎌倉攬勝考などに出てくる「くらがりやぐら」は

このあたりから「げんじヶ谷」へのトンネルのことと思われます。

「げんじヶ谷」に邸宅が建ったときに閉じられたとのこと、志村源太郎(大正12)、

幣原喜重郎(大正15)、五島慶太、秀吉魁(昭和31)らの邸宅になったそうです。

小坪海岸トンネルの上に現在の「げんじヶ谷」に立つ豪邸が見えます。

SMAPの香取慎吾さんの別荘という噂です

六角の井戸を通って光明寺に戻りました

[5] 自然の回廊巡礼 ③古東海道と住吉城址 - 地球のしずく - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/pokochino6324/64982020.html

小坪切通しは、治承4年(1180)年8月17日の「小坪坂の合戦」の場でもありました。源頼朝が挙兵すると三浦氏は石橋山へと向かいましたが、折からの雨で酒匂川を渡河することができず、合戦に間に合いませんでした。8月24日、石橋山での頼朝の敗北の情報も入ったため、酒匂川から引き返します。しかし、平家方の大庭景親の要請によって武蔵国から出陣した畠山重忠の軍と由比ヶ浜で遭遇してしまいました。

畠山重忠の母は、三浦大介義明の娘であったことなどから、合戦に及ぶ気配はありませんでしたが、鎌倉杉本寺の杉本城を守っていた三浦一族の和田義茂が三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため合戦となったのです。両者ともに痛手を負ってそれぞれ退却しました。畠山軍500騎、三浦軍300騎が布陣したのが、ここ小坪峠でした。

[6] 鎌倉 和賀江嶋から住吉城址へ, , http://www.izumi-loc.com/kamakura/wakaejima/index.html

鎌倉の材木座海岸に和賀江嶋という築港遺跡が残っています。築港遺跡としては最古のものです。

築かれたのは、鎌倉時代の貞永元年(1232)、往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)の発案で、執権北条泰時の助力で工事が行われ完成しました。その後、江戸時代まで利用されました。

飯島ヶ崎から弧状にのびる防波堤で舟繋ぎの石杭もありました。大きな根石を置き、その上に丸石を積み上げて造られたと思われます。石材は相模川、酒匂川、伊豆海岸から運ばれたものと思われます。

鎌倉時代の和賀江嶋には、宋からの貿易船も盛んに来航し、鎌倉の物流を支えました。そして材木座の周辺には魚座や米座などいくつもの座(座 ーー 商業権を独占する場、集団)が設けられ商業地域として栄えました。材木座という地名はそれが現在に残ったものです。

[7] 相模 住吉城(逗子市)/登城記|タクジローの日本全国お城めぐり, , http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_362.html

城址郭跡に祀られている住吉神社

三浦道寸が本拠岡崎城を北条早雲に急襲され逃げ込んだ城

所在地

神奈川県逗子市小坪5丁目12

形状

山城

現状・遺構等

現状:山林、住吉神社

遺構等:洞窟(トンネル?)、郭、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2007/03/11

歴史等

北条早雲が、西相模の要衝小田原城を手に入れた後、

永正7年(1510)、早雲の軍は、権現山城(横浜市)において、山内・扇谷両上杉の連合軍によって大敗北を喫し、

早雲は両上杉の壁の厚さを思い知らされた。

そこで、早雲は、両上杉を直接相手にしたのでは、勝目はないと判断し、扇谷上杉の重臣で、

相模国中央部から東部にかけて勢力を持つ三浦氏の討滅に的を絞った。

永正9年(1512)8月、早雲の軍勢は、三浦氏の本拠・岡崎城を急襲した。

時の当主・三浦道寸(義同)は、ついに支えきれず、この住吉城に逃れた。奮戦むなしく、ここ住吉城でも戦いに敗れ、新井城

(三浦市)に逃れた。この時、道寸の弟・道香は、逗子の延命寺境内で、家来たちと自害したと伝えられる。

ここにおいて、北条早雲の勢力圏は相模の中央部まで伸びた。

『「歴史群像シリーズ⑭戦国北条五代(学研刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

「住吉城址」という案内板が見つかり、その家々の間の階段を登って行ったが、その道は途中で藪に遮られて行けそうもない。途中に、

岩盤をくり抜いた住吉隊道というトンネルを抜け、山の反対側に出て、少し降りて行った所で、幸い、

道の掃除をしている方に出会い教えてもらったら、そこからすぐ上の所が住吉城址の郭跡であった。

郭跡には住吉神社が建っていた(神社というより祠と云った方が正解かもしれない)。祠の右奥には、岩を掘った、石塔と洞窟(トンネル)

と井戸跡があった。洞窟(トンネル)の向こうには、郭跡や土塁があるそうだが、懐中電灯を持ってくるのを忘れたことに気が付いた。

途中まで入っていったが、真っ暗で、それ以上入って行く勇気はなかった。啓蟄も過ぎ、蛇でも出たら・・・。情けない???

この郭跡からは山上には行けそうもなかった。最初の道が、山上への道かもしれない。

(2007/03/11登城して)

ギャラリー

住吉城全景(逗子マリーナから)

登城道? 「住吉城址」

という案内板が見つかり、その家々の間の階段を登って行った

[8] 自宅にトンネル! その2 ~謎の邸宅 in 小坪~: 三浦半島なんでも探偵団 ~B面~, , http://miura-and-others.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-20c1.html

トンネルだらけの三浦半島ですので、いろんな変わり種トンネルがあります。 10年前にそれらを探しに行った成果をオリジナルサイトに残していますが、それ以外で新たに発見された物はこちらのB面で紹介して行こうと思います。

さて2月に紹介した、自宅にトンネルがある物件ですが、詳しく調査してみたいと思いきや、それが許される状況では無さそうなのでしばらくは遠くから指をくわえて見ているしか無さそうです。 あのような物件は滅多にないと思われるだけに、残念だなあ。

ところがどっこい、地図上ではありますが、同様な物件をもう一つ発見してしまいました! 場所は逗子マリーナの横。

逗子マリーナの横とは言っても、入口はR134側にあります。 この入口から母屋までは私道が続いています。 地図上で測定すると、150mから200m位ありそうです。 その途中が山になっていて、そこにトンネルを掘ってある、という構造。

でも入口からじゃトンネルは見えないし、第一この門、表札はないし、だけどALSOKがガッチリガードしているようだし、怪しさプンプン。

ちなみに左前方に見えるのは、私道横に現在建設中のマンションで、これが完成すればそこから私道トンネルの入口は見えるようになるのではないかと想像しています。

じゃあ母屋はどこにあるのかというと、逗子マリーナ横の崖の上にあるんです。 写真右上に見える白い家がそれ。 ちなみに左下に見えるのは小坪海岸トンネルです。

この崖、ほとんど垂直に切り立ってますので、マリーナ側からは全くアプローチできません。 つまりここ、マリーナを見下ろしてはいますが、入口は海とは反対側にある私道トンネルのみ、ということで鉄壁のガードを誇っているわけです。

とはいえ、どこかにほころびがあるのではないかと思って、地形図を見ながら歩いてみました。 等高線から推察するに、住吉ずい道方面から山に入れば可能性がゼロでは無いように見えます。

ということで一旦小坪海岸トンネルを通って海側をUターンして住吉ずい道へアプローチする道に来ました。 ここから先はかなりの登りになります。

坂の途中、山中に伸びている怪しげな階段を発見! 階段があると言うことはその先に道があると言うことでしょうから、行ってみたい度200%、だったのですが、残念ながらこの階段、民家の庭から延びていることが判明したため、アプロ

[9] 小坪住吉城址 - 相模湾 海から見る風景 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/nakagawa0322/13585948.html

逗子マリーナの裏山に、大きなマンションが建ちあがっている。クレーンが見えたときに、見に行って、驚いた。中世の遺跡住吉城址にあたる場所、兵士が陣立した「ぼんぱたけ」と呼ばれた平坦地にその建物が建っていた。後北条氏と三浦氏の戦場の跡地である。城址といっても城が建っていたわけではなく、山城というか、空堀などが配され、間道が手掘りのトンネルで繋がっていた。

この場所に最初行ったのは20年くらい前である。その時の様子を、当時遺跡とも知らずに、家族とハイキングした、中世の砦跡ではないかとかすかに思いながら書いたものがあるから紹介しよう。写真は、マンションが建ち上がり始めたころの昨年撮ったものである。

[10] 隧道レポート 小坪のゲジ穴, , http://yamaiga.com/tunnel/kotubo/main2.html

2007.3.31 8:10 【鎌倉市 材木座】

現在地は国道134号・小坪地内を北上中。

見ての通り、この区間の国道は深い掘り割りになっており、古い地形図に描かれていた“目指す隧道”への道は分断されているようだ。

しかし、今の地形図にあっても隧道の掘られていた山の形に変化は無いように見えるから、道はさておき隧道は現存する可能性が高い。

そう期待しての訪問である。

とりあえず、掘り割りと隧道への道の交点と思われる位置まで北上を続ける。

ちなみに前話の最後でも少し触れたが、現在は国道134号として無料開放されているこの道は、以前は日本道路公団の管理する「湘南道路」という自動車専用の有料道路だった。(開通年および無料開放年度不明。)

そんな由来の道だから歩道も無くて、圧迫感のある掘り割りの底を車に追い立てられるようにチャリで走るのは怖い。

さらに進むと、『逗子小坪プロジェクト マンション建設予定地』と大書きされた真っ青な看板が現れた。

そこから左の山中へ向けて、鉄板敷きの工事用道路が伸びているのだが、すぐ先に高いゲートが設置されており、奥はまるっきり見通せない。

位置的には、この辺りが目指す隧道への入口になると思うのだが…。

長いあいだ沿道利用が進まなかった元有料道路沿いの、ようやく始まった開発のようであるが、嫌な予感がする。

隧道は無事なのか!

そして、一番肝心なのは、私にこの奥へと近づく術があるのか。

ダンプが頻繁に出入りし、守衛が睨みを効かせる入口前で、無惨なはげ山となった現場の山へとカメラを向ける。

…これは…

隧道の現存はもはや… 絶望的 なのでは……。

国道を悶々としながらさらに30mほど進むと、いよいよ行く手に逗子市を画する飯島トンネルが迫ってくるのだが、その手前で左に折れる小道発見!

国道から逃げ込むようにそこへ入った私だが、5m先に門扉が。

その奥には、綺麗に手入れされた庭園路が丘の上に向かって続いており、セレブの薫りがする。

というか、門の前にチャリで止まった刹那、隠されていたスピーカーから「ご用の方はインターホンを…」などと声がいきなりしたもんだから、場違いな私はびびって逃げ出した。

…だめだ。

国道の海側はこの2カ所の枝を除いては全てコンクリの法面だし、枝も全く立ち入り禁止。

正攻法での接近は無理。

湘南で不法侵入

[11] 新編鎌倉志巻之七, , http://homepage2.nifty.com/onibi/kamakurasi7.html

新編鎌倉志巻之七

やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇

鬼火へ

新編鎌倉志卷之七

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【テクスト化開始:二〇一一年十二月十二日 作業終了:二〇一二年一月二十一日】]

新編鎌倉志卷之七

〇小町 小町コマチは、若宮小路ワカミヤコウヂの東より南へ折クジけて行、夷堂橋ヱビスダウバシまでの間を云。【東鑑】に、建久二年三月四日、小町大路コマチヲホヂの邊ヘン失火

住吉城跡トンネル

住吉城跡トンネル

くらがりやぐら

くらがりやぐら

げんじヶ谷

げんじヶ谷

ぼんばたけ

ぼんばたけ

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933263085

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