百々橋

百々橋

[1] 小川百々橋 (どどばし)

35.0336965543615 135.753231346607

Webページ

[2] 百々橋の礎石, , http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/dodobasi.htm

烏丸通から,室町小学校へ入った所に,方形の石が置いてあります。

この石は、その昔,小川通寺の内に架かっていた百々橋の橋脚を支えていた礎石です。

礎石の傍には,この礎石の由来が次のように書かれています。

百々橋の礎石

1378年に足利義満がこの地に幕府(花御所を開いた室町時代,室町は政 治・文化の中心地でした。「小川通寺の内」の東西の通りを古くから百々の

辻といい,この辻を南北に流れる小川(こかわ)に百々橋(どどばし)がかかっていました。

橋の規模は,長さ四間一分(7.5メートル),幅二間二分(4メートル)。

この小橋が歴史に名をとどめることになったのは,応仁元年(1467年)5月,山名宗全と細川勝元の覇権争いから,対立する多くの守護大名が西軍と東軍にわかれて結集し,この橋をはさんで数度にわたって大きな合戦(応仁の乱)をしたことによります。

この小さな橋には,戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれています。

小川は昭和38年頃から埋め立てられ,百々橋も解体されました。百々橋の保存を願う地域の方々のご尽力により,百々橋の橋材は,一時,本校に保管されました。

その後,橋脚を支える四基の礎石の内,一基を現地に遺構として遺し,一基は室町小学校で保存,残りの二基は他の橋材とともに洛西ニュータウンの竹林公園に移され,昭和55年に竹林公園内に復元されました。 京都市立室町小学校 」

[3] 戦国を歩こう : 応仁の乱激戦地 百々橋の合戦跡, , http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/27160538.html

応仁の乱激戦の地 山名宗全邸宅跡碑付近図を見てみると 近くに「応仁の乱激戦の地」があることが分かった。 堀川通りを北上し宝鏡寺を右折した先にある模様。行ってみることにした。  宝鏡寺 「寶鏡寺門跡」の碑が建つ。由緒ある寺院のようだ。時間なのか門は開いていなかった。 高札の解説があるのでそちらを見てみる。 「宝鏡寺 六棟」解説 尼寺の門跡寺院のようだ。江戸時代以降に始まる臨済宗の寺院のようだ。 調べると春と秋に特別公開があるとのこと。人形の寺としても知られているようだ。 「舊百々御所」 石碑を横から見ると「旧百々御所」と書かれてあった。 日野富子の木像があるとのこと。 日野富子は足利8代将軍義政の正室、義政が弟義視に跡を譲る事を決めた後に義尚を生み、将軍の後位継承を巡って争う原因ともなる。応仁の乱にも絡み、後の明応の政変にも絡んだ。様々な形で政治に絡み悪影響を及ぼしたことから悪妻とも呼ばれた。 宝鏡寺から激戦の地跡へ 宝鏡寺の壁が続く 「応仁の乱激戦の地 百々橋の合戦跡」 「百々橋の礎石」 宝鏡寺を東に進む地図で示していた場所に出る。それらしい場所。立札解説もある。 「百々橋の礎石」立札解説 東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが数度にわたり合戦を行ったとある。 百々町と宝鏡院東町との間にかつては小川がながれていたとのこと。百々橋はこの川に架かる橋だったようだ。 当時、付近ではこの橋を通るしか渡る手立てがなかったのだとか。このためここが激戦地になったようだ。 現在残っているのは橋の礎石ということらしい。周辺を見てみる。 柱石 柱石と思われる。その隣には手水石のようなもの。 水が張ってある。奥を見てみると礎石らしきものがあった。 ベンチが置かれているが柵があり進めそうになかった。 全部礎石なのかどうなのかはイマイチ分かりにくい。 全景としてはこうなる。 宝鏡寺からここへの道は「百々ノ辻」といったらしい。東西の往来はここにあった橋に集約されていたのだろう。 このため応仁の乱では激戦になったと考えられてる模様。実際にはここだけではなくこの周辺一帯が激戦地だったと思われる。ちなみに「百々橋」は「どどばし」と読む。安土城下にも同じ名前の橋があり同じ読み方をするようだ。何か関係があるのだろうか? 百々橋は別の場所に移築されているとのこと。 百々橋の移築先は京都市洛西竹林公園内とのこと

[4] 百々橋, , http://www17.ocn.ne.jp/~park/E.html

竹の資料館から生態園の遊歩道に出てまもなく、池の上に「百々橋」(どどばし)が架けられています。

この橋は、かつて京都市百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていたもので、応仁の乱(1467-1477)のとき、

細川家(東軍)と山名家(西軍)が11年にわたって戦ったその発端となった橋です。

もともと板橋でしたが、後に石橋に改築されたもので、昭和38年に解体され、

室町小学校に保管されていたものをこの洛西竹林公園へ移築されたもので、京都でなくては見られない遺跡の一つです。

[5] 京都観光Navi:百々橋の礎石, , http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=84

内容概要

この石は、応仁の乱(一四六七~一四七七)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の疎石の一つである。

百々橋は当時を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約七・四メートル、幅約四メートル)で、橋名は、応仁の乱以前の風景を描いたといえあれる「中昔京師地図」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられている。

応仁の乱の際、細川勝元(東軍)が山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。

古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、昭和三十八年(一九六三)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方の御尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管された。

その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されたが、橋脚を支える四基の疎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺構として当地に遺された。

[6] 京都風光*小川通, , http://everkyoto.web.fc2.com/report81.html

小川通

百々橋の礎石遺構。ここに百々橋が架けられていた。長さは7.3m、幅3.7m。百々橋が石橋になったのは近代、1907年の改築の際という。1963年小川の下水道整備の際に埋め立てられた。その後、10年ほど室町小学校に置かれる。1975年に竹林公園(西京区)に移されている。

本法寺(ほんぽうじ)仁王門、日蓮宗本山叡昌山本法寺。開祖は室町時代、1436年、本阿弥清信が日親上人を開祖に請じて創建されたという。「鍋冠り上人」といわれた日親は、二度にわたり投獄された。激しい拷問に耐えて、法華弘通につとめた。寺は、もともとは四条高倉にあり、その後この地に移転した。現在の堂右は江戸時代後期に再建された。

本阿弥家の菩提寺。本阿弥家光悦とゆかりが深く、光悦の作庭による「巴の庭」、書画・什器、筆の扁額や長谷川等伯の「仏涅槃図」などがつとに知られている。

なお、かつての「小川」(こかわ)は寺の門前を流れており、今は水はないが、当時の石橋はそのままに残されている。

裏千家家元の茶室(今日庵)の表門、兜門とも呼ばれる。非公開。

少庵と宗旦は、当初現在の不審庵の地に住む。少庵は宗旦に「不審庵」を譲ったのち、江戸時代、「今日庵」(1646)を建て隠居してこの地に住んだ。さらに、宗旦の建てた利休茶室の復元「又隠」(1653)に再び隠居している。

露地内にはわずか二畳(正しくは一畳台目という一回り小さな畳)の茶室・今日庵のほか、多くの茶室がある。今日庵もまた利休茶室の復元であり、極限の狭さが具現されている。

千家家系

利休-少庵-宗旦-�A次男・宗守(武者小路千家) �B三男・宗左(表千家) �C四男・宗室(裏千家)

小川通()周辺には、本法寺などの寺院、裏千家家元の茶室(今日庵)などの屋敷が点在している。、

◆歴史年表 室町時代のこの地は、足利将軍家邸宅花の御所(室町御所)に近く、幕府関連の屋敷や寺院などが建てられ、政治の中枢となっていた。また、「人形寺」として知られている宝鏡寺は、足利義政・日野富子夫妻の小川御所跡とされている。

中期以降は、小川の東側に幕府管領細川氏の家臣屋敷、西側の堀川周辺には、同じく山名氏の家臣の屋敷が多くあった。このため、応仁・文明の乱(1467-1477)の乱では一帯が戦場となり、焼失している。

11世紀、一条小川付近には革聖行円の開いた行

[7] 小川通, , http://www.uchiyama.info/kyoto/matiya/matiya/ogawa/

1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。一条通以北に西側に堀川に流れ込む小川(こがわ)が流れていたことから小川通と呼ばれるようになった。室町時代には将軍足利義尚の小川御所があったことから小川の川沿いは開けていたことだろう。

堀川通と紫明通の合流地点辺りから小川通に入り一路南下する。左右に妙覚寺、大応寺、本法寺の寺を見る。

<妙覚寺>(上左画像)

妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている。開山は日像聖人だが、永和4年(1378)に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地に創建した。後に二条衣棚に移り、再び豊臣秀吉の命により現在の地に移転した。

この大門は、当時の記録によると聚楽第の裏門であったと伝えている。本瓦葺・切妻造の薬医門で本柱筋にのる大きな板蟇股には外側に上巻渦、内側には上下二段に大きな下巻の渦文をつけている。この板蟇股の内部には人が隠れるぐらいの空間があるのも、この大門の特色で、左右にくぐり戸を配し、長い袖塀を持つ姿は、聚楽第の遺構にふさわしい堂々たるものです。

<大応寺>(上右画像)

金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は9世紀初期、壇林皇后によって悲田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明2年(1470)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正14年(1586)に虚応和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一宇を建立したのが当寺の起こりである。

堂宇は度々火災にあい、現在の建物は文化5年(1808)以降の再建である。本堂内には、本尊として釈迦如来を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。

境内にある織部稲荷社は当時の鎮守社で、17世紀初頭の織部流茶道の祖、古田織部正が伏見稲荷から勧請したものという。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の信仰が篤い。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行われる。本堂背後には後花園天皇の火葬塚がある。

<本法寺>(下2枚画像)

叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起こりという。

はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1

[8] 洛中の失われた小河川, , http://agua.jpn.org/yodo/katura/old.html

失われた洛中の小河川

京都市街にはけっこうな数の小川が流れていたが、現在ほとんどが暗渠となり、微妙な高低差のあった谷地も平らに均され、いまや水辺を偲ぶよすがとて無い。山城原野を流れた川の多くは、平安京造営時に大なり小なり改変を受けているので尚更跡を追いにくい。

失われた川たちは例えば、南流していた今出川、中川、西洞院川、小川、東西方向に流れていた四条川などが挙げられる。

■ 今出川

今出川は鴨川からの分流とも、雲ヶ畑からの水ともいう。

寺町通を流れたものと相国寺付近を流れたものがあるという。

かつては六条あたりまで南下する流れであったという。

左の写真は相国寺境内にある溝。不自然に境内を曲折しているので、もしかしたら川跡なのかも知れない。

また、相国寺の北の宅地には妙に曲がりくねった路地があり、旧河道の可能性があるが確たることは皆目わからない。

■ 中川

京極大路から下の今出川を称したものという。京極川の謂もあるが古くは中川といった。

用途は貴族邸内の園地に引き込むものや灌漑用水と思われる。

源氏物語の「空蝉」のくだりで、光源氏が方違えに訪れる下級貴族の家が中川から庭に水を引き込んでいる様子が描かれている。

■ 小川 ( こかわ )

堀川通の堀川紫明交差点の東から元本能寺あたりまで通じる「小川通」に名を残す、堀川に注いでいた川。寺之内付近には明瞭な川跡が残っているが、流水は全く見られない。下の写真、左は本法寺門前の橋で、河床には木が植わっている。右写真は報恩寺門前の橋で、家々の背割や墓地脇に涸れ川が残っている。宝鏡寺脇で小川に架かっていた「百々橋」は昭和38年の埋め立ての際取り払われ、西京ニュータウンの竹林公園に復元されている。橋の礎石は室町小学校にも残っている。左写真は宝鏡寺塀際に残された礎石。小川は、昭和初期には蛍飛び交う流れだったという。地表流は失われたが水脈は残っていて、井戸水は現在も茶を点てるのに珍重される。

■ 西洞院川

堀川通の東、小川通と新町通の間にある南北の小路・西洞院通に明治中期まであったという。市電開通にあたって暗渠化されたもので、現在は下水溝となっている。

もちろん、これ以前にも平安京造営にあたっての改変を受けているものと思われる。

*このほかにも、東洞院川、室町川、大宮川など都の造営にあたって消滅した小川が多数あると伝わ

[9] 京都歴史散歩 百々橋の礎石, , https://www.youtube.com/watch?v=u4UZCYTu3P4

応仁の乱の際、ここにあった橋を挟んで合戦があったそうです。

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933251356

メモ