2008/9/9 6:50
でかい!
間近で見ると、洞門は巨大だった。
そして、それ以上に入口を塞いでいる岩の大きいこと!!
こんなものがゴロゴロと落ちてきたのでは、さしもの剛構造物、コンクリート洞門も破壊を免れなかった。
この洞門、見ても分かるとおり、決して古いものではない。
土砂崩れが起きたのは平成3年だが、全長30mの猿なぎ洞門が完成したのは、昭和59年である。
しかも、事故当時はちょうど、洞門を高山側へさらに30m延長する工事中であった。
洞門を破壊した崩壊現場である斜面を見上げる。
まるでスプーンで掬ったような、土砂崩れ跡の特徴的な地形がくっきりと残っている。
しかし、それでも崩壊斜面はコンクリートの真新しい吹きつけで覆われていた。
よくもあんな所で工事したものである。
いつも思うが、高所作業の人たちは本当に、すごい。
道は復旧されることなく廃止されたが、この崖の対岸には集落があるわけで、崩れっぱなしで放置というわけにも行かなかったのだろう。
なお、前編では崩壊の模様が録画および放送されたと書いたが、その映像の一部が 「社団法人 斜面防災対策技術協会 富山県支部」 サイトで見ることが出来る。(“サンプル映像”の最後にちょこっと入っている)
洞門の高さと同じほどもある大岩の脇から、猿なぎ洞門の内部へ進入を試みる。
こりゃ…ひどい…。
洞門が原形を留めている部分でも、内部まで大量の土砂が侵入しており、とても無事とは言えない状況。
舗装されているはずの路面は、少しも見ることが出来ない。
なお記録によると、30mの洞門のうち高山側(こちらは松本側)の10mは、土砂と一緒に川まで押し流されてしまったという。
だから、ここに残っているのは20m足らずということになる。
そして、私はこの時点で、 ある信じがたい異変に気付いてしまった。
目の錯覚だと思いたかったのだが…。
お、おお、 恐ろしすぎる……。
これが、崩れ落ちた大岩を支えている坑門部分。
表面には細かな傷や、コンクリートが剥離した跡が無数にある。
とても四半世紀を経ただけのコンクリート構造物とは思えない傷み方である。
ちなみに銘板は存在しない。
現役当時の写真を見る限り、この洞門に扁額はなく、道路標識と同じタイプの金属製の銘板が取り付けられていた。
その残骸も見られないが、