馬の背

馬の背

[1] 富士山馬の背

35.3603430236537 138.727962076664

Webページ

[2] 剣ヶ峰とお鉢巡り【富士さんぽ】, , http://www.fujisanpo.com/route/summit.html

このサイトでは、また一般的にも、「富士山山頂」と言うと火口の外周に位置する各登山道の終点を意味します。しかし、山小屋などが立ち並ぶその地点の標高は、3,700m少々しかありません。実際の富士山の最高地点は、「剣ヶ峰」であり、さらに60m以上登った位置にあります。折角ここまで登ってきたのですから、最高地点に立ちたいですよね。

また、山頂は「一地点」ではなく、ぐるっと旧噴火口を取り巻いて、その稜線(火口壁)が全て山頂であると言えます。この稜線を辿って火口周囲を一周することを「お鉢巡り(おはちめぐり)」と呼びます。

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登頂の疲労や時間的な余裕の無さからか、意外に行われていないのが「お鉢巡り」と、富士山の最高地点である「剣ヶ峰」への登頂だそうです。私からすると勿体無い限りです。富士山の火口こそ苦労して登って来て、さらにほんの少しの苦労で見られる、それだけの苦労をしても見る価値のある風景だと思います(但し、強風時、残雪が多いときなどは中止の決断も必要)。

もちろん、登山道終点である登頂地点付近からも火口は見られますが、その火口壁も含めてもっともダイナミックに感じられるのが、剣ヶ峰から小内院の間の登山道から見られる景色です。

富士山の火口の底である大内院は、3,538.7m地点にあり、火口の深さは237mにもなります。大内院は幽宮とも称され、禁足地(足を踏み入れてはいけない聖域)とされています。

[3] 鳥取砂丘 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%A0%82%E4%B8%98

鳥取砂丘 (とっとりさきゅう)は、 鳥取県 鳥取市 の 日本海 海岸に広がる広大な砂礫地で、代表的な 海岸砂丘 。 山陰海岸国立公園 の特別保護地区に指定されており、南北2.4 km, 東西16 kmに広がる。観光可能な 砂丘 としては日本最大で、一般が立ち入れないものも含めると 青森県 の 猿ヶ森砂丘 に次ぐ規模を誇る。 1955年 (昭和30年)に国の 天然記念物 に、 2007年 (平成19年)に 日本の地質百選 に選定され、 伯耆大山 と並んで鳥取県のシンボルの一つとされている [1] 。

日本三大砂丘 の1つだが、その他の2つについては諸説がある。

砂丘の状況 [ 編集 ]

中国山地 の 花崗岩 質の 岩石 が 風化 し、 千代川 によって日本海へ流されたあと、海岸に集まったものが砂丘の主な 砂 となっている。海中の砂を海岸に向けて流れ寄せる潮流と、海岸線に 堆積 した砂を内陸へ吹き込む 卓越風 の働きで形成された。

砂丘は千代川の東西に広がっているが、通常「鳥取砂丘」というと、千代川の東側の545 ha の「浜坂砂丘」を指す。砂丘によって海から切り離されて出来た湖である 多鯰ヶ池 がすぐ南東にある。

最大高低差は90 mにもなり、すり鉢に似た形に大きく窪んだ「すりばち」と呼ばれる地形が作られており、特に大きなすりばち(「大すりばち」などと呼ばれる)は40 mの高さになる。すりばちの斜面には、流れるように砂が崩れ落ちた形が簾を連想させる砂簾(されん)などの模様や、風速5 - 6 m程度の風によって形作られる 風紋 (ふうもん)と呼ばれる筋状の模様が見られる。すりばちの最深部には「オアシス」と呼ばれる地下水が湧出している場所があり、ごく浅い池を形作る時期もある。

鳥取砂丘には、3本の砂丘列が日本海とほぼ平行に走っている。天然記念物に指定される前までは、陸側の砂丘列から数えて、第一、第二、第三砂丘列と呼称していた。現在では逆に海側から、第一、第二、第三としている。これには、砂移動の減少が原因で陸側の砂丘列が消滅してしまった場合でも呼称に都合が良いよう、という理由がある。

砂丘近隣に 有島武郎 、 枝野登代秋 、 高浜虚子 、 森川暁水 、 与謝野晶子 などの歌碑が点在する。 北島三郎 の曲「港春秋」の歌碑もある。また、演歌歌手 水森かおり の曲「 鳥取砂丘 」

[4] 鳥取砂丘「オアシス」巨大化 大雪で地下水増加が影響か | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170304/k10010898701000.html?utm_int=news_contents_news-main_007

鳥取砂丘にある地下水が湧き出てできた「オアシス」が例年にない大きさに広がり、先月の記録的な大雪で地下水が増えたためではないかと見られています。

[5] 三仏寺 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BB%8F%E5%AF%BA

当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしている。堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられている。過去に投入堂に近付こうとして滑落死した者もいるという。

屋根形式は神社本殿に多く見られる流造( 切妻屋根 の正面側の軒を長く伸ばし、側面から見ると「へ」の字形に見える屋根形式)である。屋根は庇も含め檜皮葺き、平面は桁行(間口)一間、梁間(奥行)二間とする(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。ただし、桁行背面は中央にも柱が立ち、二間とする。このうち、奥の桁行一間×梁間一間を横板壁で仕切って身舎(もや)とし、身舎の前面から西面(向かって右)にかけて、高欄付きの縁を鍵の手にめぐらす。流造屋根の左右に庇を付し、向かって右の庇は前述の縁の一部、左の庇は愛染堂との取り合い部を構成する。北西側(向かって右手前)には一段低く縋破風(すがるはふ)を付す。

平面規模は、縁の部分を含めて、正面が5.4メートル、奥行が3.9メートルである。柱は側柱(外回り)を角柱、身舎部を太い円柱とする。角柱は断面が八角形に近い大面取りとするが、これは平安建築の特色である。組物は簡素な舟肘木である。身舎は正面と西側面に両開きの板扉を設け、天井は格天井とする。身舎の奥寄りの部分は床を一段高く造り、かつてはここに7体の木造蔵王権現立像(いずれも重要文化財)が安置されていたが、今は山下の収蔵庫に移されている。庇柱は縁の下に長く伸びて崖の斜面に達し、地形にしたがって各柱の長さを違えている。縁下の庇柱間は筋違(すじかい)という斜材を入れて補強している。

投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属する。愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉を設ける。投入堂と愛染堂の取り合い部には一段低く床を張る。投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっている。

投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかない。

前記の通り立ち

[6] , , http://homepage2.nifty.com/pow-dream-shino/kokuhou46.htm

第45章 建築美を探して

第226話 神秘への道程

2010年9月18日午後、僕らは鳥取県東伯郡三朝町の三仏寺参道前に立った。

国宝建築探訪を始めた10年近くも前からずっと気になっていたこの神秘的な建築と出逢うために。

三仏寺投入堂に行くんだぞ!

と力んで言っても、僕の周りの多くの人達は「何それ?」と不思議な顔をする。

「ほら、誰か偉い人が断崖絶壁のくぼみに、投げ入れたというお堂だよ。」

※「誰か偉い人」というのは修験道(しゅげんどう)の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)のことらしい。

「知らないけど...」

特に東日本出身の若い人はこんな感じだ。だけどweb上の写真を見せると、

「ああ知ってる、知ってる、何かで見たことがある!」

ということになる。つまり、知名度は低いが、「知姿度」は高いということだ。それほどテレビや雑誌等にはよく紹介される建築なのだ。しかし、その実物を間近で観ようと思うと、それはもう小さくない決心が要る。理由は三仏寺投入堂への道程が国宝建造物随一の難所であるからだ。

今日の僕らは3人連れ。ずっと国宝倶楽部に参加している北関東の「あきらくん」、もうひとりは僕がこの「国宝の力」を更新しなくなった5年ほど前から入部した二人目の「あきらくん」だ。便宜上、「あきらくん�U」と呼ぶことにしておこう。(失礼) 5年も「国宝の力」を更新しなかったのは、ここに集まって下さる皆様には申し訳なかったと思うが、僕が国宝探訪に飽きたわけではない。仕事やプライベートで忙しかったこともあり、単純に時が流れてしまったのだろう。でもその間、羽黒山や信州、高岡や平泉への国宝倶楽部の活動は(どれも再訪だけど)継続し、僕自身もここにはupできていないが多くの国宝に出逢っている。東日本の国宝建造物と仏像はすべて制覇した。そして、どうしても一度は投入堂を観ておきたいという二人の「あきらくん」の強い要望に押し切られた形で、僕は小さくない決心をした。

山歩き用の靴でないと不可(用意していない人は何故かわらじを履く羽目になる)ということで、3人ともトレッキングシューズだ。Gパン、Tシャツにゴムいぼ付きの軍手、重たくなるといけないので、背中のリュックには愛用のEOS7Dと広角から望遠をカバーしたタムロンの優れものレンズ(と思っている)1本のみ。首にタオルを巻いて、リュッ

[7] 隧道レポート 信州新町日原西の明治隧道捜索作戦, , http://yamaiga.com/tunnel/okihara/main2.html

2015/10/7 8:15 【現在地】 / 【旧地形図での現在地】

ここは置原から信級(のぶしな)へ通じる市道の途中であるが、この写真のカーブの地点から左方向へ分岐する道が あって欲しい。

自転車を停めて、じっくりと写真の「赤丸」の辺りを観察する。

旧地形図では、この辺りで柳久保川を渡って橋木へ通じる道があり、その途中に目指す隧道が描かれているのだ。

距離的にはもう300m以内には近付いているが、擬定地へ行くためには最低限、この柳久保川の対岸へ行く必要がある。

もちろん、かつては橋が架かっていたはずで、その痕跡でも見つける事が出来れば、隧道(あるいはその跡地…)へ導かれる未来も見える。

だが、現在の地形図からは綺麗さっぱり消え去ってしまった道は、そう易々と姿を現しはしないようだ。路上からの観察では、分岐する道を発見しなかった。

だが、見つからない道の代わりになる発見かは不明だが、「赤丸」の辺りの草むらには、なぜか 無数の石材 がごろごろと転がっていた。

なかば土と草に埋もれていて全体の数は把握できないが、10はあるだろう。

石材と表現したとおり、単なる自然石ではあり得ない。

いずれも長さ50cm、太さ20cm四方ほどに成形された角材で、表面には手作業で削ったときに残る鑿の痕が鮮明に残っていた。

明らかに現在の鋪装された市道に似つかわしくない、廃石材の山。

ここが明治隧道の擬定地に近いことを考えれば、この石材の正体に関する妄想は捗る。

あるいは、隧道よりもっと近くにあっただろう橋に関係するものなのか。

いずれにせよ、現道よりも遙かに古い時代の土木構造物を想像させるものではある。

と同時に、それが“散乱”しているという事実は、“解体”という残念な末路を想起させもした。

探し求めている明治期の里道(現在の国道19号の前身である府県道長野飯田線のさらに旧道)は、これまで辿ってきた(現代の)市道と完全に重なっていたとは限らない。

大体近い位置を通ってはいたと思うが、両者の路面が同じ高さで接するような“分岐”地点が、そもそも存在しなかった可能性もある。

とりあえず自転車を残し、石材の山を踏み、路外へ出た。

周辺の地形をさらに観察したい。

まだ秋の深まりは不十分で、濃い緑の路傍へと分け入るのには少しばかり覚悟を要したが、どこかで道を踏み外さなか

[8] 廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡, , http://yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main7.html

“結の章”、最終探索の始まり。

平成22(2010)年2月に、君津市内の小さな廃林道で遭遇した古老の何気ない証言から始まった、私の林鉄に対する常識をも覆す元清澄山中の“廃情報”は、2014年12月初旬に第三の証言者を得た事で急転直下の進展を見せた。

東京営林局千葉営林署が戦前に運用していた、“ 小坪井軌道 ”と呼ばれる存在が、“トロッコ谷の軌道”の正体の判明であった。

さらに、第三の証言者が地元での聞き取り調査の末に得た路線の全容を示す手書きの地図( →【画像】 )は、私にとって宝の地図と呼ぶに相応しい、得難い収穫となった!

だが、答えを教えてもらったから、それで終わりではない。

私には自分一人の探索ではない、新たな使命が生まれた。

それは、この宝の地図に書かれた、証言者も確認していない秘奥の内容を自らの足で確認し、その現状を報告するということである。

それこそが、私に出来る数少ない恩返しでもあった。

そんな少しばかりの使命感と、大きな自らの探索欲を胸に、第一の古老の証言から5年越し、前回探索から2年ぶりとなる2回目の現地探索は、2014年12月27日に決行された。

今回の探索の目的は、第三の証言者により存在が明らかにされた4本の隧道のうち、私が未見である3本を確認することにある(右図の“隧道擬定エリア�@〜�B”)。

その中でも最大の目標は、この一連の探索の端緒である第一の証言者(古老)が語った「全長500m幅2mのトンネル」と同一視される、トロッコ谷の奥にあるとされる “隧道�@” の発見と探索にあった。

そして、その目的を果たすための前提であるトロッコ谷への再アプローチは、前回と大幅に変更することにした。

前回は、笹川湖バックウォーター附近に入谷し、素直にトロッコ谷を辿りながら往復するルートをとったが、今回目指す隧道擬定地は源流附近であるため、往復で半日を要する行程を再現するのは、気乗りがしない。また、明らかな危険要素である工事用仮設橋を再び渡るのも避けたかった。

よって今回は、より短距離であることが期待出来る、尾根越えのアプローチを狙おうと思う。

右図は、これまでの探索の成果を色々と書き込んでいるのでごちゃごちゃしているが、我慢して見て欲しい。

まず今回の「出発地」は、前回探索の終盤に訪れた田代林道の 小坪井橋附近 とする。

そこか

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933229325

メモ